手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

衣食住

衣食住

 

 昨日(2月19日)に着物の話をしたので、そのついでに、今日は住まいの話をしましょう。俗に衣食住と言いますが、これは江戸時代の物の価値観を意味していて、江戸期で最も高価だったのは衣類でした。その理由は昨日お話しした通りです。機織りが正味人件費であるために、生地と言うのはどうやっても安いものが作れなかったからです。

 次に高価だったのは 食です。食べ物は米にしろ麦にしろ、豆類にしろ、都市に住む人たちは、全て金で買わなければ生活できないため、物の相場に左右され、常に不安定な生活を余儀なくされました。今でも夏場にそうめんや冷や麦、蕎麦などを食べることがしばしばありますが、実はあれは、江戸時代の名残です。

 秋の米の実りを前にして、夏場江戸や大坂ではコメの在庫が不足し、米価が急騰したのです。米屋は新米がなかなか入荷しないと、在庫の米の値段を引き上げるために、夏場は米が食べられない家が多かったのです。やむなく冷や麦や、蕎麦を主食代わりにしてしのいでいたわけで、暑いからそうめんでつるつると食事をする、というわけではなく、やむを得ず麺類でしのいでいたのです。

 驚異的な高カロリー食である米は、肉体労働の多い昔は必需品で、肉食をほとんどしていなかった昔には、エネルギーは殆ど米から取っていたわけで、多くの人が米の食事を求めていたのです。

 江戸っ子が粋にそばをすすっている姿はよく浮世絵に描かれていますが、私が子供のころは、何杯も笊を重ねて蕎麦を食べることはみっともないと、お爺さんに言われました。昔の人は、米が食べられないからそばを食べているんだ。と思われることが恥だとされていたからです。江戸っ子そうめんをすすりつつ、早く江戸に米が届いて、安い米をたらふく食べたいと思っていたのです。

 

 そんな中で現代よりもかなり安かったのは家賃でした。家は丸々一軒借りても一か月一両(10万円)ほどにはならなかったと言います。良く江戸の話で、棟割長屋などと言う言葉が出て来ますが、棟割りとは、例えば棟が南北に伸びている長屋があるとすると、家の屋根の一番高いところ、背骨の部分から完全に壁で遮って、西側に住む住人と東側に住む住人を棟で分けたのです。棟を境に、西側5室、東側5室と言うような長屋を作ります。人棟10室ほどの長屋にしたわけです。こうすると、西側に住む人は殆ど日が当たらなくなりますが、そんなことは関係ないのです。とにかく住めればいいのです。

 一室は九尺二間(くしゃくにけん)と言いますので一間は180㎝X2ですから、奥行きは3,6m、横幅(一尺=30㎝X9)で2,7m。つまり6畳ほどの広さです。ここに4畳半の畳を敷きます。これが住まいです。残った一畳半は、土間です。玄関と台所に使います。台所と言っても小さなへっついと言う竈(かまど)と水桶が付いているだけです。

これが生活の全てで、多くの人はここに暮らしていたのです。この家賃が、西向きで日当たりが悪かったりして最も安い部屋で、月に300文(一文25円として、300文=7500円)。格安の家賃です。少し日当たりが良かったり、部屋が6畳間であったりすると、400文(1万円)から500文(1万2500円)と値段が上がったのです。

 それでも1万2500円ですから現代の東京のアパートから比べたら随分安いのですが、何しろ、井戸は共同で、便所も共同です。ガスや電気はありません。風呂は近所の風呂屋(江戸では湯屋と呼びました)に行かなければなりません。押し入れもなければ、ベランダもありません。正味住むだけの部屋ですから、現代のアパートとは比較になりません。

 部屋と部屋の間は、漆喰を塗った土壁で仕切られていて、隣の家の声が聞こえてしまうような作りだったそうです。屋根は板屋根で、薄い木っ端を並べて乗せただけの造りで、これだと瓦屋根より軽いため、長屋の柱は細い柱でも支えられたのです。

 但しこうした造りは、一旦周囲に火事が起こると、屋根は飛んでくる火の粉で簡単に燃え広がり、長屋一棟はあっという間に焼けてしまったそうです。

 但し、そんな長屋でも、江戸に住むには身元引受人が必要になります。引受人がいないと長屋も借りられないのです。地方から出て来て、江戸で暮らして行こうと志を立てても、まず住まいを借りられなければどうにもなりません。

 そこで、働き先の伝手を頼ったり、大家に掛け合って、身元引受人になってもらったりしなければなりません。何か問題を起こせば忽ち追い出されてしまいますので、安普請の長屋でも、周囲に気を使って、大家や差配(管理人)などには季節ごとに付け届けをして生きなければならなかったのです。

  即ち江戸時代の生活の経費の順番は、衣、食、住だったわけで、住むことが一番安かったわけです。今日では、住、食、衣と言うことです。

 今でも上野浅草の商店街の奥あたりに、昔ながらの長屋があります。今は大分なくなってアパートに建て替えられていますが、私の20代まではそんな長屋が連なっていました。マジシャンもそうしたところに暮らす人がいたため、私は良く古いマジシャンからマジックを習うために訪ね歩きました。

 表通りの商店と商店の間に、2mほどの路地があって、そこに簡単な門が付いていました。門には庇(ひさし)がついていて、庇の下に、長屋の住人の名前が木札で張ってありました。表札と言うほど立派なものではなく、名刺ほどのサイズの薄い木で、名前が書いてあり、それが釘で止まっていました。

 そこに古い芸人さんが暮らしていました。それでも昭和のことですから、四畳半と言うような狭さではなく、六畳に台所が付いたような部屋でした。

 長屋によっては二階もあって、部屋が上下で三つもあるような長屋がありました。松鶴家千代若師匠などは、上野の佐竹町に二階付きの長屋に住んでいました。大阪の帰天斎正華師匠も同様で、二階建ての長屋でした。

 千代若師匠などは、下の部屋に座りっきりで、長火鉢を前にして、後ろにはお稲荷さんを祭って、昔の芸人そのままの生活をしていました。銭形平次のドラマで見るような暮らしぶりでした。別段これを狭いとも思わず、何不足なく暮らしていたのです。こうした家の構えや、生活の仕方がしっかりできていた時代はいい時代だったなぁ。と思います。

 今は千代若師匠も、正華師匠もいません。さてこの先芸能人はどんなスタイルで生きて行けばいいものか。

続く