手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

家の建て替え

家の建て替え

 

 ようやく私の隣の家が新築されました。4か月くらいかかったようです。二棟建ての建売住宅です。まだ中を見てはいませんが、これから売り出しをかけて、内覧会をするでしょう。どんな家が出来たのか、楽しみです。

 周囲を見渡すと私のすぐ裏の道で2軒、家が新築されています。ここも間もなく完成するでしょう。北側の道のお婆さんが住んでいた家は、4軒の建売住宅になって去年の秋に完成して、もう若い夫婦が入居しています。

 そしてそのすぐ東にあった、お地蔵様を祭っている、お爺さんの家は先日お話ししましたように今は更地です。かなり広い土地ですので恐らくマンションかアパートが建つのでしょう。わずか半年以内で、私の家の半径50m以内で五か所の家が壊され、新築の家が建つことになります。

 関東大震災で被災して、この辺りに引っ越してきた人たちが、高円寺で新たな生活をはじめ、そうして生まれた子供たちが、今や90代になります。その人たちが今、亡くなって行きます。

 日本の場合、家の所有者である老人が亡くなると、その家は間違いなく壊してしまいます。そのまま受け継いで住むと言う家族は先ずありません。不動産屋さんも、買い取りはしますが家は壊します。日本建築のいい家もあるのですが、家は継承されません。勿体ないと思います。

 結局、日本では、田舎の民家でもない限り、100年200年と言う民家が維持されることはありません。ヨーロッパなどでは普通に200年以上もの歴史のある古い家が売買されていますし、アパートでも、築200年、築300年と、平気で書かれたチラシ広告を見ることがあります。

 私は20代のころ、ベルギーの友人のアパートを見せてもらったことがあります。場所は、ブルージュと言う町で、とにかく町ごと文化遺産になるくらいの美しい街です。その中央広場に近い、5階建ての家のアパートの二階が住まいでした。

 そのアパートは、中に螺旋階段があって、各階二所帯ずつアパートが出来ていました。アパートは20畳くらいのリビングと、8畳くらいの寝室が一つ、それに台所と風呂トイレです。日本のアパートよりはずっと恵まれたスペースですが、なんせ古い建物ですから、毎日螺旋階段を使って上り下りするのがまず大変。

 水道も、ガスも古いままでした。それでも、その場所に住むことが嬉しいらしく、この生活に満足しているようでした。

 そうした家は、外観は3階~5階建てで、エレベーターはなし。煉瓦と木造の柱、壁は漆喰を塗り、屋根は薄く削った石瓦が並んでいて、遠目に見ると綺麗に並んでいますが、近くで見ると不揃いで、「よくこれで雨が漏らないなぁ」。と思います。

 家全体は煉瓦を積み重ねて出来ていますので防火対策はいいかと思いますが、単純に煉瓦を積み上げただけですから、日本の田舎の民家のような、丈夫な柱と梁がしっかりついていないように見えます。

 そんな状態で3階建て、5階建てを立てるわけですから、耐震構造はあってないようなもので、かなり危険です。但しヨーロッパはほとんど地震がありませんから、そうした家でも十分住めるのでしょう。多くの家は外装をそのまま残して、内装だけを自分の好みに変えて住み続けています。

 外観はとんがり屋根で、ピノキオの家のように、煉瓦と漆喰で作られていて、窓枠は白や青い枠を付けてまるで童話の挿絵のようにきれいです。然し、中は築200年、300年ですから、先ず床に隙間が出来ていて、床板が少し反っています。歩くと、ぎーぎー音がします。内壁は壁紙が貼ってあって、何十年かに一度取り換えているようです。家具はずっと昔からその部屋にあったものを使っているようで、新たに買い替えたものもほとんど見当たりません。

 そのため、仮に今の室内を写真に収めて、100年前の写真と比べても、恐らくほとんど変わらないでしょう。ヨーロッパ人はそんな暮らしをしています。

 

 さてそこへ行くと、老人が亡くなると、家が跡形もなくなって、全く新しい家が出来ると言う日本の生活がいいことかどうか。残すべき伝統や、生活様式などは全く顧みられず消えてしまう現状が少し不安になります。

 家が安易に壊されることも問題ですし、生活様式が継承されないことも問題です。

 高円寺の商店街を見ても、呉服屋さん、和装小物屋さん。履物屋さん、三味線屋さんと言った昔からあった店がどんどんなくなって行きます。下駄や草履の鼻緒の付け替えなどと言うものは、普通に店先でやっていたものですが、もう見ることはありません。

 呉服屋さんなどは、私が高円寺に越して来たころは、北口にも南口にも数軒あって、高円寺駅前だけで10軒くらいの呉服屋さんがあったように思います。今では、和装で男物などとなると探すのに苦労します。襦袢でも羽織裏でも、かつてはいいものが普通に売っていたのですが、今は見ることがなくなりました。そのうち、東京中を探しても、和傘がない。下駄がない、粋な帯がない。などと言う時代が来そうです。和の仕事をしているものにとってはこの先大変な時代が来そうです。

 せめて私だけでもたくさん買って、仕事に生かしたいと思いますが、私が買う金額などは知れています。とても何軒もの店を守ることなどできません。どうしたら和の文化が残るのか、どうしたら古いものが継承されるのか。そんなことを思い続けて、毎日散歩をしています。私のささやかな力で、和の文化を知らしめたいと思います。

続く