手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

その後の初音ミケ

その後の初音ミケ

 

 以前ブログに、よく私の家に遊びに来る猫のことを書いていました。週に二、三度、必ず午前11 時ころに、一階のアトリエのドアの前にお座りして、小声でニャオと鳴き、私に挨拶をします。私はその頃を見計らって、ドアについている風入れのためのガラス戸を開けて待っていると、ミケはドアの前に座ります。私がすぐに気が付けばいいのですが、返事をしないとアトリエの中を見渡して、再度またニャオと挨拶をします。20分くらい私と会話をして、やがてまた立ち上がって外を見回りに出かけます。

 ミケとの縁はそれだけなのですが、家の裏にある平屋のアパートの屋根で日向ぼっこをするのが日課で、午前中は私の家の三階の居間から、アパートの屋根の上にいる姿をしばしば見ました。私はミケにエサを与えることはしませんでしたし、ミケもドアが開いていても決して中に入って来ようとはしませんでした。

 年齢は9歳だったと思います。なんせ、ミケは裏のアパートの濡れ縁の下にあった段ボールで生まれたのです。その段ボールは初音ミケの母親である親ミケが長く暮らしていました。アパートの住人が隠れて餌をやって育てていました。ミケが幼いころは私の家の前で四匹の兄弟猫と一緒によく遊んでいました。それがある日、捕獲員がやって来て、兄弟猫は掴まってしまいましたが、母親とミケだけが生き残りました。

 親ミケと初音ミケは毛並みがよく似ていてミケが大きくなると、見分けがつかなくなりました。数年後、母親は老いて亡くなったらしく、その後、母親の縄張りをミケが継承することになったようです。ミケは二度ほど子供を産みましたが、生まれた子供はみんな捕獲員につかまって連れて行かれてしまいました。

 その後ミケは、どこかの家に飼われたらしく、滅多にやって来なくなりました。たまに来ると毛並みが良くなって、体も一回り大きくなっていました。その時去勢手術をしたようで、以来ミケが子供を産むことはなくなりました。

 この一年は、私の家の隣の家や、裏の家が取り壊され、新築の住宅が建てられました。この間、工事で大きな音がしたり、見慣れない人たちが出入りしていたためか、ミケは全く寄り付かなくなりました。「まぁ、いい就職先も出来たことなので、それはそれでよかったかなぁ」。と思っていました。

 今は裏の家も隣の家も完成しました。然しミケはやっては来ません。以前は裏通りから、私の家の前の通りまで、短縮して抜けられる板塀があったのですが、取り壊されてしまい。ミケが通りづらくなりました。裏のアパートの屋根は昔の儘で、日当たりはいいのですが、そこに行くための猫道が無くなったためか、ミケの昼寝をする姿を見ることはなくなりました。

 そもそも私の家の近所に猫がいなくなりました。保健所が徹底して捕獲をしたのでしょうか。それとも何らかの理由で遊びに来づらい場所になってしまったのか。少し気になります。せっかくブログに書いていた初音ミケの話も、訪ねてくるミケがいなくなると、何となく書いていて張り合いがなくなり、話が止まってしまいました。

 

 それがたまたま2か月前の12月にミケがやって来ました。その日は12月にしては暖かい日でした。ミケはいつもの通り、一階のドアの前でお座りをしています。初め、私はミケが来ているとは知りませんでした。すると何度か、表から鳴き声が聞こえました。「まさかミケかなぁ」。と思ってドアを見ると、曇りガラスにミケが映っています。

 珍しいことです。風入れ用の窓を開けると明らかにミケでした。「久しぶりだねぇ。どうしていたの?」。と尋ねると、ミケは小声で二度三度鳴いていました。何にしても私のことを覚えていてくれて、訪ねて来てくれたのは嬉しいことでした。ただ、心なしか毛並みが悪くなり、体も小さくなっていました。無論、見間違えるわけはありません。なんせ、私の家のドア前でお座りする猫は他にはいませんから。

 ミケが何かを伝えたいと考えていることはよくわかりました。いろいろな理由で今は外に出歩くことは難しくなっているのでしょう。余りうろついていると捕獲員につかまる可能性があります。昔と違って、餌をくれる親切な人も少なくなっているのでしょう。

 そうであっても、就職先が見つかったのは良かったと思っていたのですが、この日のミケを見ると、痩せて随分貧相に見えました。たぶん、養ってくれた親切なお婆さんが亡くなったか何かして、家を追い出されたのでしょう。結局、又野良に戻ったのだと思います。年を取ってスポンサーを失うことは大きな痛手です。と言って、今までの縄張りに戻ろうとするには、もうすっかり新しい家が建ってしまい、立ち寄る所もほとんどありません。たくさんいた仲間の猫も今では見ることも稀です。

 ミケは、「すっかり時代が変わってしまいました」。と言いたげです。時々、荒れた毛並みを丁寧に舐めながら、姿勢を崩さずに私を見ています。私にはミケの気持ちが分かりました。ミケは私に別れを言いに来たのです。かつてミケの親猫も同様でした。ごっそり抜けてしまった毛を舐めながらひたすら私に何かを言おうとしていました。その後、オヤミケを見ることはなくなりました。あれが私への最後の挨拶だったのでしょう。初音ミケもまた、親ミケ同様に挨拶に来たのです。

 私が何かしてやることなどできません。ただ、ミケの話を聞くだけです。「私のことを忘れずに訪ねて来てくれたのは嬉しいよ。私のいないときもあったろうから、何度も訪ねて来たんだろう?有難う」。と、ミケをねぎらってやりました。

 しばらくしてミケは立ち上がり、通りを歩いて帰って行きました。いつもなら裏の板塀に上って帰る所ですが、もう板塀はなく、あったとしてもその上で巧く歩けないかも知れません。足はよたよたと頼りなく、元気だった時の綺麗な顔立ちと、大柄で美しい毛並みはすでになく、見るからに痛々しくて気の毒でした。それでも体の不調を推して、別れを言いに来てくれたミケの気持ちが嬉しく思いました。それが初音ミケを見た最後でした。

初音ミケの話し終わり