手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

猫の蚤取り屋

猫の蚤取り屋

 

 たまたま昨日、冷や水売りについて書きましたが、私の手元に、「職人・芸人・物貰図絵(小野武雄 編著)」と言う、立派な装丁の図鑑があります。ここにはあらゆる江戸の職業、芸人がイラストで描かれていて、解説がついて、なかなか想像を掻き立てます。

 中には、とても今では職業として成り立たないような仕事が本当に行われていたようで、それはそれで、そうして生きて来れたことを羨ましく思います。

 

屑屋

 屑屋さんと言う職業は、確実に昭和までは存在していました。「屑うぃーおはらい」と言いながら町中をリヤカーのついた自転車で引いて回って、紙くずや廃品などを集めていました。古新聞、広告、古雑誌の類などを良く集めていたように思います。

 私の幼いころは、自転車等乗らずに歩いて回っていた人もいたように思います。人一人がズタ袋を背負って、歩いて集めた紙屑が、一体いくらになったのか、見当もつきませんが、大きな荷物と天秤計(てんびんばかり)を持って歩いていました。今、天秤計見ることは稀ですが、60㎝くらいの棒の片方に重りを付けて、反対の端に荷物を吊るして、中心の軸を移動しながら重さを計ります。

 屑屋さんは、古新聞や雑誌を集めて、なにがしかの金を支払って買い取って行ったのです。随分奇特な職業があるものです。それが江戸時代から昭和まで続いていました。江戸はエコのお手本のような時代で。あらゆる廃品が金で取引されました。

 

灰屋、蝋屋、汚穢屋、

 灰屋は文字の通り、灰を買い取る職業で。各家庭の竈(かまど)の下の灰を定期的に買い取ってくれる人がやって来ます。灰を買い取って一体どうするのかと思いますが、漆喰などと合わせて壁塗りなどに使ったり、肥料にしたり、絵の具にしたりしたのだそうです。

 その灰も、松の木とか、決まった木を灰にしたものは値段が付くのですが、何でもかでも竈にくべていたのでは売れません。灰の色が統一されないためです。とにかく、江戸時代は一軒一軒の竈の下の灰までも既得権があって、誰でも勝手に買って行くことは出来なかったのです。

 月に一度くらい灰を取りに来るのですが、景気の悪いときには長屋の暮らしは三度の飯が二度、一度になり、竈を使う回数も減って、灰も集まらなかったようです。

 この竈の灰のお礼は附木(つけぎ=細い木っ端に硫黄が塗ってあるもの。のちのマッチと同じ)を数本置いて行ったそうです。

 松旭斎天洋翁は子供のころ、道頓堀にあった灰屋に奉公に出されたと自伝で書いています。灰取りが細かく集めた灰をまとめて買い取っていたのが灰屋です。丁稚を使って道頓堀で店を構えていたのですから、職業として十分成り立っていたのです。

 

 蝋屋は、灰屋と同じく、蝋燭(ろうそく)が垂れて、灯台に零れた蝋を集めて、蝋燭屋に卸していたようです。蝋燭から垂れる蝋はわずかですが、それをこまめに集めて再利用すると言うのが想像を超えたエコです。但し、垂れた蝋を集める仕事で日々の生活が成り立っていたのかどうか、他人事ながら心配になります。

 

 汚穢屋(おわいや)さんは、汲み取り屋さんのことで、家々の便所や、長屋の便所を定期的に回ってし尿を集め、肥しとして再利用します。江戸時代は、し尿は貴重な肥料でした。各家庭の便所にも縄張りがあって、勝手に持って行くことは出来ません。定期的に契約した汚穢屋さんが来て汲み取って行きますが、近郷のお百姓がアルバイトで集めていたようです。その代金として、取れた野菜をいくつか置いて行ったそうです。長屋の差配(管理人)はその野菜が余禄だったそうです。

 実際江戸の近郷のお百姓は、野菜や豆類を作ることで、米以上の稼ぎを上げていました。特に野菜は日持ちがしないため、長距離輸送が効きません。江戸の近郊で作って小舟で江戸に運ぶことで稼いでいたのです。但し、年に何度も畑を使うために、畑の土は痩せて行きます。そのため肥料は欠かせなかったのです。

 汚穢にも等級があり、長屋の汚穢は最下位で、上級は、武家の屋敷、商家の屋敷、最上級は江戸城の大奥の汚穢だったそうです。日頃の食べ物によって、し尿にまでも上下関係があったようです。

 

 都市文化が発達すると、夜の灯火がの需要が大きくなります。蝋燭などは相当に高価だったので、一般の家では使えません。多くは、菜種油か鰯脂の灯火を使っていました。菜種は高級で、油のにおいも少なく、いい灯火ですが高価です。その点鰯脂は安価でした。然し、魚の匂いがきつく、不純物が多く、煤がたくさん出ます。それでも庶民は贅沢を言えません。大概は鰯脂を灯して夜の明かりにしていました。

 この鰯脂は、朝方、鰯が取れたときに、魚屋は天秤棒で担いで新鮮な鰯を町中売り歩きます。それが売れ残ると、全て油屋が引き取り、魚を圧縮して脂を取ります。これを濾して灯火にします。残った魚かすは、干しかと言って、細かな粉にして肥料にします。この干しかが、魚の脂分を含んでいていい肥料になります。菜種油を取るための菜の花を栽培するときや、大豆、小豆などの豆類を育てる時には欠かせない肥料になります。こうして、鰯は捨てる所がなく、100%活用されていたのです。

 

 江戸の職業で、私が最も変わっていると思った職業は、「猫の蚤取り」です。初めて聞いたときには、「そんな仕事で生きて行けるのか」。と他人事ながら心配になりました。

 一体どうやって猫の蚤取をするのかと調べると、先ず猫を洗います。そして、猫を拭くときに、獣の毛皮で拭き取るのだそうです。その獣の毛皮は、同じ猫だとか、犬だとか、狼の毛皮だとか諸説あります。とにかく毛皮で拭いてやると、蚤が渇いた毛皮に移動します。それを一つ一つ見つけ出して蚤をつぶして行きます。蚤の死体を何十匹か作って、この一連の作業を終えます。手間賃は3文(75円)だそうです。

 どうにもまともな仕事とは思えません。これで生きて行けるわけはないと思いますが、この仕事にはもう一つ裏があって、猫の蚤を取ると言って、妾(めかけ=愛人)さんや後家(ごけ=未亡人)さんに取り入り、家に入って世間話をするうちに仲良くなって、ヒモになって行くのが目的だと言う話があります。つまり猫の蚤取はダシに過ぎず、部屋に上がり込んで仲良く話をするのが目的だったようです。それならそれなりに夢のある仕事で、若い後継者も育ったかもしれません。

 続く