手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

如月(きさらぎ)

如月

 

 2月のことは古くから如月と呼びました。1月は睦月(むつき)、これは正月に親戚一同が集まって、仲良く宴会などをするために、睦まじき姿を言うのだそうです。これはいい言葉ですね。

 さて2月を如月と言うのはよくわかりません。これは古くは、衣を重ね着するほどに寒い季節と言うことで、衣更着(きさらぎ)と書いたそうです。確かに2月は一年中で最も寒く、暖房設備のない昔であれば、衣類を重ね着するほかはなく、ありったけの着物を着て冬をしのいだのでしょう。

 その昔は衣類がとても高価で、誰も彼もが自由に新しい着物が買えるわけではありませんでした。なんせ。反物は人が1㎜1㎜織って作って行くわけですから、反物の長さ即ち人件費だったわけです。江戸時代でも、荒い晒の6尺褌が一本1万円したと言います。今日晒2mくらいなら200円くらいでしょうが、昔は機械織がありませんから、正味人件費が乗ります。結果、色も柄もない晒の生地2mが1万円です。なかなか長屋住まいでは簡単に褌一本買うことも出来なかったのです。

 ましてや、浴衣一着作るとなると、生地に色柄を染め、反物も8mから必要になりますので、縫い賃まで入れれば、一着12万円くらいはかかったでしょう。今日の生活と比べてみると、衣類は確実に現代の十倍かかるとみて間違いありません。浴衣は貴重品です。ましてや袷の着物(裏地の付いた着物)で、しかも絹物となると、数十万円、数百万円したのです。とても庶民の手の届くものではなかったのです。

 江戸っ子は、夏の祭りに浴衣を拵え、祭りが過ぎると、単衣物(ひとえもの)の着物(裏地を付けない一枚物の着物)の下に襦袢代わりに浴衣を重ね着しました。

 これが如月のころになるとさらに綿入れの着物や、袷の着物を重ね着したのです。但し、綿入れや、袷の着物を持っていればの話です。多くの庶民は袷も綿入れも持ち合わせていませんでした。ありあわせの半纏(はんてん)などを羽織って、ひたすら寒さに耐えていたのです。

 山上憶良と言う平安時代歌人は、出向先の土地で冬場を過ごしますが、余りに寒く、その上、自分に持ち合わせの着物がないため、一人寂しく、夜が明けて暖かくなるのをひたすら待っていた、と歌に残しています。

 貧しい人は、寒さをどうすることも出来ず、只夜をふるえていたのです。朝になって日がさすことは神の恵みだったのです。食事も同様に、食べるものがなければ、我慢するほかはなく、平安時代なら、一日二食だったろうと思いますが、その二食の食事すら満足に食べられる人は少なく、ありあわせの物を一食食べて、その後は、次の食事にありつけるのをひたすら待ったのです。

 平安時代の日本人の平均寿命が、30歳代だったと聞きました。なぜ30代で亡くなったのかと言うなら、毎度毎度の食事が満足に食べられず、更に冬場は寒さに耐えなければならなかったからでしょう。健常であればそれも出来たでしょうが、年を取ったり、体が弱ければ、食べ物の少ない、寒さ厳しい如月の時期はたちまち寿命が尽きてしまったのです。短命の原因は貧困だったのです。如月の時期に衣を重ね着できる人は恵まれた人達で、多くの人は着た切りだったわけです。

 

ビバルディの合奏組曲四季の冬の楽章に、寒さに震えて、体がガタガタするところが、音楽になっています。バイオリンの合奏で聞くと美しい曲ですが、当時生きていた人には切実な話で、寒くて寒くて体全体がガタガタ震えているさまが出て来ます。西洋も日本も、如月は寒かったのです。

 

 長唄勧進帳の出だしに、「時しも頃は如月の、十日の夜」と唄い出します。源頼朝に追われた義経主従は山伏に変装して、北国街道を歩いて陸奥の平泉に逃げます。途中、加賀の国(石川県)の安宅関(あたかのせき)に差し掛かります。ここでも頼朝から義経の追討令が出ていて、関所の通過も厳しくなっています。

 関守の富樫の左衛門(とがしのさえもん)は、山伏一行を怪しみ、いろいろ質問をします。そこを、義経主従は上手く言い逃れをして通って行くのが、勧進帳と言う芝居です。

 当時の義経が、何人の家来を連れて旅していたかは知りませんが、当然食事は持ち合わせてはいません。そして如月の季節の厳しさです。ダウンジャケットやオーバーコート持参で奥州まで逃げたわけではありません。素足にわらじ履き、単衣の麻衣の修行姿で冬の能登半島を歩いて行ったのです。今だってその格好で歩いたなら、寒くて寒くて一日と歩いては行けないでしょう。然し歩くほかに進む方法のない昔は耐えて歩いて行ったのです。大変な旅です。

 安宅の関から、東に回り越中富山県)に行き越後(新潟県)を超え、出羽(山形)に行き、奥州山脈を越えて、平泉に入ったのでしょう。草や木の皮を食べ、時に蛇やネズミなどを食べて飢えをしのぎ、平泉に入ったときには、人相が変わるくらいに痩せこけていたことでしょう。難行苦行を体験したわけです。

 

 如月の季節から、いろいろと妄想が膨らみましたが、安宅関から北に100キロ行けば、能登半島の先に出ます。能登半島の被災者の苦難を思うにつけ、わずかでも支援をしなければいけないと思います。こうして食べることも寒さも普通にしのげることは幸いと思わなければなりません。感謝です。

 続く