手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

70歳からの芸

70歳からの芸

 

 今日12月1日、69歳の誕生日を迎えました。正直申し上げて全然めでたくはありません。まず自分自身が69歳になったこと自体が半信半疑です。

 体の調子はさほどに悪いところはなく、自分自身は今までと何も変わってはいないと思っていいます。私は50歳の時から糖尿病になりましたが、それでも、今では血糖値も標準に戻っていますし、薬も軽いものを服用しています。

 数値が安定しているのは、普段ほとんどアルコールを吞まなくなったことが大きいと思います。月に一二度、人が訪ねて来た時に呑む程度です。それだけに、たまに仲間と呑むアルコールはとてもうまいと感じます。

 

 昔、浅草松竹演芸場で長く支配人をしていった、澄田課長が、晩年糖尿病になって、太った体で動くのが如何にも不自由そうだったのを覚えています。一緒に歩くと、足元が常にふらついていて、普通に歩けませんでした。当時20歳くらいだった私は、澄田さんの歩く姿を見て、「どうしてもっと早くに、まっすぐに歩けないんだろう」。と不思議に思っていました。

 今私が糖尿病になって、69歳になってみると、澄田さんの気持ちが少しわかりました。私も動き方によって足腰が少し痛いときがあるのです。歩くと言う、ただそれだけの行為が少し痛いときがあるのです。「ははぁ、澄田さんはあの時痛かったんだ」。と当たり前のことが今になってわかりました。私も、基本的な動作が少しずつ緩慢になって来ました。それでも私は澄田課長を思えば、まだ問題のない部類だと思います。

 

 酒をやめた時、初めの内は呑まない日々が寂しく感じましたが、呑まないことで、夜が暇になったので、物を書くようになりました。それが「そもそもプロマジシャンと言うものは」や「手妻のはなし」、「たけちゃん金返せ」などの一連の書籍となったわけです。又、今こうして朝早くに起きてブログを書くようになったことも、酒をやめた効果です。新たに自分のなすべき道が見つかれば、酒を呑まないことは何の苦もなく、日々は問題なく生活しています。

 

 アルコールから離れたことは健康にはいいのですが、芸人として生きるには、余りにまとも過ぎて、面白みがありません。血糖値を気にして生きると言うは何とも小市民的です。70歳を過ぎたなら、もっと、ばかばかしくくだらない人生を送りたいと内心思います。

 

 私が20歳のころ、アダチ龍光師はもう70歳だったと思います。然し、見るからに老人で、全く別の人種に見えました。間違っても自分はこう言う年寄りにはならないだろうと思っていました。

 実際その歳に近づきてみると、矢張り今の私とアダチ龍光は違います。然し、70を過ぎても舞台でくだらない話をしている師匠は、面白くて、魅力的でした。全く人生を悟っていないのがいいのです。最近特にああなりたいと思います。

 松鶴家千代若、千代菊の漫才の師匠も私が20歳のころはもう70だったと思います。茨木訛で、口数が少なく。何を話しても、「そうか」。「うん」。ととしか言わない師匠でしたが、ある時「師匠、何を食べるとそんないい声が出るんですか?」と聞いたとき、間抜けな声で「なっぱ」。と言いました、この間を外して言った「なっぱ」がおかしくて、今でも思い出します。この師匠は、突拍子もない話し方でポツンと喋る一言がとても面白い人でした。

 

 今まで私が見た芸人で最高に馬鹿馬鹿しかった人は、大阪の漫才で「きーやん」と呼ばれていた師匠で、私が名古屋の大須演芸場に出ていた時に、出合った師匠でした。その時でももう80近かったと思います。芸名は佐賀家喜昇(さがのやきしょう)、旭芳子

のコンビで、芳子さんが三味線を弾き、きーやんが替え歌を歌っていました。この人の得意芸が、蠅、で、着物を着たきーやんが舞台中を飛び回ります。途中で止まって、顔を手でこすったりします。終いにめくり札につかまっているところを、舞台袖の裏方のお兄さんが現れ、丸めた新聞紙で思いっきりきーやんをはたきます。はたかれたきーやんは仰向けになって倒れ、足をバタバタさせて、やがて息絶えます。

 蠅の短い半生を演じるのですが、これが80過ぎのお爺さんが演じると、余りに馬鹿馬鹿しくて大爆笑です。他にも乞食の漫才。などと言う芸もあります。この乞食が何ともみすぼらしく、リアルで、貧乏くさく、実に可笑しいのです。芳子さんが、お客様に「何やったら少し恵んでやって」。と言うと、本当にお金が飛んで来ました。そのお金のもらい方がまた哀れっぽくて涙が出るほど可笑しかったのです。

 他にも便所の尺取虫。と言うのもあり、舞台の上手から下手に向かって、ひたすら尺取虫になってのろのろ動くと言うもので、どう考えても80過ぎてやる芸ではありません。余りのくだらなさに笑い転げてしまいます。

 この師匠は若いころから誰よりも笑いを取る漫才として人気があったそうですが、芸が汚いと言う理由で、当時大阪の角座や、難波花月のような一流の劇場には呼ばれることがなかったそうです。然しその可笑しさは80に至っても衰えることはありませんでした。

 一流の芸能と言うのは、例えば京舞の竹原はんさんなどは、只立っているだけで風格があり、京女を体から匂わすような芸だと評されました。それに対して、大阪のきーやんは、80過ぎても蠅や便所の尺取虫を演じ、蠅がめくりに掴まって顔をこすっている姿が如何にも立派で、大阪を代表する芸だ、とは言われません。徹底した馬鹿馬鹿しさで観客からさげすまれつつ、喝采を受けました。

 若いうちは、喜昇師匠を見て、「面白いけど、決して真似をしてはいけない芸だ」。などと、したり顔で思いましたが、今になって思えば、なんて得難い人なんだ。ここまでくだらなさを追求した芸人が他にあるだろうか。と思うと、私自身が追及している芸など、芸のほんの入り口に過ぎないのではないか、と気付くに至りました。

 来年は70歳。もう失うものはありません。そろそろきーやんの蠅や乞食の漫才をやって見ようかと思います。

続く