手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

松旭斎すみえ師死去

松旭斎すみえ師死去

 

 一昨日(8月23日)松旭斎すみえ師が死去されました。老衰だそうです。享年85。

ここ数年は体が弱くなって、施設に入っていたそうです。そのためお目にかかる機会もなく、噂も途絶えていたのですが、この度永眠されました。葬儀は家族のみでされたそうです。

 すみえ師の実家は複雑で、当人は生みの親の話をしたがりませんでした。虐待などもあったのかと思います。幼いうちに家出をしたのか、親から離れ、育ての親である芸能社(芸能プロダクション)をしている家で育てられることになりました。

 この経緯はよくわかりません。ただ、そこでの生活は今までとは別世界で、同じような幼い子供が何人もいて、踊りや、曲芸をしたり、みんなで遊んだりして、毎日がお祭りのような楽しさだったそうです。

 恐らくこの芸能社は、芸人の子供を預かり、芸事全般を教えて、芸人にするための養成所のようなものだったのだろうと思います。そのため、人の出入りの多い家で、この賑やかさはそれまで虐げられてきた生活をしていたすみえ師にとっては、真逆の生き方で、ようやく自身の生きる道を見つけた思いだったのでしょう。

 

 そこですみえ師はマジックと遭遇するわけですが、これはマジックが得意であるとか、マジックが好きだから始めたわけではなく、当時の芸人の子供と言うものは、男なら落語、講談、漫才など、語り芸に行くのが普通で、女の場合は、マジック、三味線漫談、漫才などに行くように修行をさせられます。

 才能があるとかないとかにかかわらず、食べて行くために芸を身に着けるわけです。

一見、私の人生と似たところがありますが、私は、親から勧められてマジシャンになったわけではなく、又、マジックの人脈も全く手探りで自分で掴んで行きました。更に私は稼ぎを両親に渡すことはなかったのです。そうした点では、ひと時代前のマジシャンとは違った生き方をしてきたと思います。

 全く自分の判断でマジックを選び、マジシャンとなって行ったわけです。ところが、私の目には、周囲の女性マジシャンは、全く別の人種に見えました。楽屋などで、話をしていても、彼女たちは全くマジックに興味がないのです。海外のマジシャンの話などしても、「その人誰?」と、逆に聞かれます。尋ねられて、マジシャンのことを話しても、何の興味も持たれません。

 彼女たちの演技は十年一日、全く同じことを繰り返していますし、新しいマジックに興味がありません。それでも新しいことをやらなければならないときには、師匠の所に行って、習いに行くわけですが、それは新ネタではなく、旧作の中でまだ自身がやっていないものを習うわけです。そのため、女性のマジックは顔が違っても、内容が同じ場合が多かったのです。

 そんな内容では食べて行けないだろう。と思うと、それは大間違いで、当時の世間は、芸人に暖かだったのです。特に女性のマジシャンや、漫才などは、よく売れたのです。若い女性でマジックなどすると、10年20年のうちに一軒家を建てることなどざらにあったのです。

 「こんな芸でどうして仕事になるんだろう」。と、若かった私には不思議だったのですが、そこが昔からの芸人の生き方を早くから学んでいる人たちの強みでした。つまり、せっせと仕事をくれるご贔屓(ひいき=スポンサー)さんに、手紙を書き、場合によってはお中元お歳暮を欠かさずに贈っていたのです。仕事を世話してくれる人たちと日ごろから密接な繋がりを作って、生きていたのです。

 人との縁を大切にし、細かく人とのつながりを持ち続け、身一つ生きるための処世術を心得ていたのです。マジシャンは内容さえよければ暮らして行けるだろう。と考えていた私のようなものには全く予想だにしない世界でした。

 

 話は長くなりましたが、そうした芸人の子供、或いは芸能社の子供が松旭斎すみえ師であり、漫才の内海桂子好江師だったのです。好江師は芸人の子供で早くから三味線を習い、舞台に上がっていました。好江氏とすみえ師は日頃から仲が良く、よく合うと二人で話をしていました。共に陽気で屈託のない人でした。

 

 先ほど、昭和20年代30年代の女性のマジシャンの多くは、マジックに興味のない人が多い。と書きましたが、その中で唯一と言っていいほどすみえ師はマジックの稽古に熱心でした。新しいマジックを積極的に練習していましたし、マジックの技術も女性の中で一番上手でした。それだけによく売れた人でした。

 カードマニュピレーションなどもされるときがあり、両手を使ってのミリオンカードなどは珍しい内容でした。但し、スライハンドをしても何をしても、必ずその後で喋りが入ります。この喋りが所謂(いわゆる)寄席の話し方で、今日のマジシャンの語りとは別物でした。

 「お客さんよく見ていてちょうだい。でもタネのことなんかあまり考えないでいいのよ」。と言った話方で、およそドレス姿に似つかわしくないものでした。でも当時はそれが良かったのでしょう。師のスタイルは終生寄席芸で、落語家さんの間に出て演技をする、色物芸のスタイルをそのままに演じていました。徐々にそうした芸能も消えて行きます。今となっては懐かしいマジシャンです。

 

 私が奇術協会に所属したころ(昭和40年代)はまだ、明治生まれのマジシャンがたくさんいたのですが、さすがに、今では明治も大正生まれもいなくなりました。戦前(太平洋戦争前)の人もどんどん少なくなっています。但し、この時代に生まれた人が、昭和30年代40年代に活躍して行きます。この時代こそ、最もマジシャンの多かった時代で。ステージマジックの華やかな時代でした。それが徐々にいなくなってゆくのは寂しいことです。心よりご冥福をお祈りします。合掌。

 

 「日本食2」は来週書きます。

続く