手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

面白て やがて悲しき お笑いかな 2

面白て やがて悲しき お笑いかな 2

 

 私は、当時の有名芸人、大師匠が、ある日突然、お客様が笑わなくなった場面を何度も見ています。毎日余裕で漫才をしていた大師匠が、お客様がクスリとも笑わなくなるのです。すると、当人たちも舞台上で慌てだします。受けないとわかると、すぐさま受けネタに差し替えて、別の話題を持って来ます。傍で見ていても、ネタが二転三転しているのがわかります。明らかにまとまりのない漫才になって行っています。ところがどんなに手を尽くしても、お客様は笑わないのです。

 私は客席の後ろで見ていて「笑いの芸と言うものはこんなにももろいものなのか」。とその意外なほどの観客の変わりように驚きました。以前と比べて寸分たがわぬ喋りをしているにもかかわらず、ある日お客様は笑わなくなるのです。ベテラン芸人にとっての不幸の始まりです。

 ベテランの大師匠は、やっとのこと舞台を終えて、楽屋で汗を拭きながら、内心は「これは何かの間違いだ」。と思ったでしょう。「どこかでお客さんとの噛み合いを間違えたんだ」。とか、「お客さんの質が悪かったんだ」。と思います。ところが、これ以降、そうした舞台が、数度に一度やって来ます。徐々に受けなくなるのです。

 そうなると演じる方も疑心暗鬼になります。堂々と、晴れやかに舞台に現れていた大師匠が、見る影もなく小さな芸人になって行きます。そして、受けが弱いと舞台の上で言い訳が始まります。笑いが受けないからと言って、言い訳をしても何ら解決するものではありません。芸が陰気臭くなるだけです。

 どんなに受けなくても、受けないことを引きずって話をしてはいけないのです。ベテランならそんなことは百も承知です。承知していながらも、笑いの芸で笑いがないと言うのは、頼るすべを失います。何とか受けをもらいたい一心で、引きの芸(ぐちぐちと言い訳をしたりして、人間の弱さを見せて、お客様から共鳴を得ようとする。心の内を見せることで人間本来の弱さ、儚さを見せて笑いにつなげようとする)で観客の興味を呼び込もうとします。然し、受けないときの引きの芸は惨めな結果に終わるだけなのです。どんどん傷口を広げます。そんな舞台を経験すると、いかなベテランも、すっかり自信を失って行きます。

 これが芸の死なのです。芸能の技術を身に着け、人気を得て、収入を得て、押しも押されぬベテランが、ある日突然冷めた目でお客様に見られる日が来るのです。この時、芸人に終わりが来ます。こういう日が、50代、60代で来ると、悲劇です。残りの人生はなんとか余勢で生きて行けるかと思っていたものが、1㎜も居場所が残されていないと知ったとき、芸人人生は終わるのです。

 そうならないように、あれこれ新しいことを考えて生きて行かなければならないのですが、20代30代で次々にアイディアが考えついたことが、50代60代ではどんどん難しくなって行きます。頭の中が固くなっているのです。こうしたときの苦しみは、若いころでは考えられません。まさに八方塞がりなのです。

 

 堀口大学と言う、明治生まれの詩人がいます。その詩に、「月光とピエロ」があります。元は11篇の詩なのだそうですが、その中の4篇が合唱曲になっています。私は高校時代にこの曲を合唱で歌いました。

 ピエロはサーカスの間つなぎに出て来て、コミカルな演技をします。決して主役にはなれません。顏はおしろいを塗って、素顔もわかりません。そのピエロが自らの境遇に悩み、月を見ながら涙を流します。顏はおしろいを塗ったまま、道化の姿で涙を流します。そんな状況を詩にしています。

 

 月の様なるおしろいの、顔が涙を流すなり

 見すぎ世過ぎの是非もなく、おどけたれどもわがピエロ

 秋はしみじみ身に染みて、真実涙を流すなり

 

 ピエロのつらさ身のつらさ、ピエロの顔は真っ白け

 白く明るく見ゆれども、ピエロの顔は寂しかり

 ピエロは月の光なり、白く明るく見ゆれども

 月の光は寂しかり

 

 高校時代は言われるままに歌っていましたが、芸能を職業にするようになって、時々この詩を思い出します。そして、なぜ、ピエロが派手な格好をして、おしろいを塗ったまま、夜な夜な月を見て涙を流すのかが分かるようになりました。

 

 恐らくおしろいを落としたなら、50づらをした親父の顔が出て来るのでしょう。もう今となっては新しいことも考えつかず、体も動かず、ただピエロをしているだけで、何とか日々しのげているのです。今となっては、ピエロであることが当人の存在なのでしょう。化粧を落としてしまえば、ただの親父です。

 

 そんな時に、ほのかな恋が芽生え、明るい兆しが見えます。然し、よくよく考えて見れば、無一文で、年を取ったピエロに相手は振り向いてはくれないでしょう。若いころには山ほどほどあった夢も、今は一つ一つ消え失せて行き、ただ力のなくなってしまった我が身がそこにあるばかり。

 化粧を落として素の自分で生きて行きたいと思いつつも、おしろいを塗ることはやめられず、おしろいの顔で月を見て涙を流すのです。なぜ涙を流すのかと問うまでもないことで、年を取って、おしろいを塗って、ピエロをすることは、それそのものが悲しいのです。

 

 私の親父は、60を過ぎて、仕事もなくなり、金もなく、それでも仲間とマージャンしたりして、小銭を作っては、毎日飲んで遊んで、ギャンブルして楽しんでいました。然し、親戚連中は、年を取って、知名度もなく稼ぎもない親父をさげすんでみていました。陽気で面白い人でしたが、いつも人の影口に怯えていました。親父にとっては、日々遊んで暮らしている身が、内心恥ずかしかったのです。家に飾られたこけしは、全部横を向けて並べていました。前を向けると「悪口を言われているんじゃないか」と思って、心が落ち着かないと言っていました。

 親父にとっての理解者は、母親と私の家族だけでした。そして寄席や演芸場の舞台に出ているときだけが心の休まる時でした。いつでも人の表情を見て、遠慮がちに暮らしていました。「芸人は恥ずかしい生き物」。それを実践し、全うした人でした。

面白てやがて悲しきお笑いかな 終わり