手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

神棚に手を合わす

神棚に手を合わす

 

 私の家の一階、アトリエには神棚があります。何を祭っているのかと言うと、日本芸能神社と言うお札が入っています。本当は毎年お札を変えなければいけないのでしょうが、もう40年近く昔の儘のお札が収まっています。

 と言うのも、日本芸能神社は、山形県の米沢にあり、米沢から更に山奥に入ったところの神社をお祭りしています。20代のころ、米沢のマジッククラブに指導に行ったときに、会員さんが車で連れて行ってくださって、お札を買い、それをそのままお社を買って自宅に収めて今に至っています。

 日本芸能神社と言うのは、元々が須崎(東京湾沿い)にあったそうで、太平洋戦争の際にお社が焼けてしまい、ほったらかしの状態だったそうです。それを当時の人気コメディアン、伴順三郎さんが気の毒に思い、自身の生まれ故郷、米沢にお社を移して今まで続いているのだそうです。

 、なんせ、米沢と言う土地の、更に山の中ですから、そこに日本中の芸能人がわんさか押し掛けると言うことはありません。たぶん今もひっそりと祭られているのだと思います。

 

 私は、ほぼ毎日、そこに供えてある、榊を水で洗い、二礼二拝を繰り返しています。それが日課ですが、時に忘れる時もあります。仕事で何日も東京を留守するときなどは、拝礼を女房に任せることなどしません。いないときは何もしないのです。

 無論、弟子にも参拝を強制することはありません。強制したところで、心から敬意を表さないのであれば意味はないと思うからです。朝、私が神棚に手を合わせているときに、弟子が私の前を部屋の掃除をしながら横切ろうとするときがあります。

 ちょうど手を合わせて頭を下げたときに弟子が前を通ると、私は神様に頭を下げたのではなく、弟子に頭を下げたことになります。一瞬、「あぁ、損をした」。と思いますが、別段やり直しもしません。そんなことがあってもいいのだと思います。

 宗教と言えば宗教ですが、別に深く信心しているわけでもなく、神様に何かをお願いすることもありません。元々人間ごときものが私事を神様にお願いすることが恐れ多いことであって、何かを神様に頼むことはいけないことなのです。

 お百度参りなどと言うものがあって、毎日百日お参りすると、願いが叶う。などと言う神社がありますが、あれも同じことでしょう。「百日拝んだのだから何とかしてくれ」と言うのは、百日通ったことで神様に恩を着せているのと同じことで、神様にすればそんなことは知ったこっちゃありません。

 学問の神様、勝負事の神様などと言うものもありますが、実際、私が学問の神様であったとしたなら、毎日熱心にお参りに来る学生に対して、「熱心に通うから、いい大学に入れてあげよう」。と言う風には思わないでしょう。

 やはりやるべきことをやって、才能のある人が合格すべきで、手を合わせてお参りをする前に、自分がそれにふさわしいかどうかを考えれば、おのずと合格するかしないかはわかるはずです。

 ギャンブル好きな人で、競馬場に行く前に、勝負事の叶う神社に「第3レースが1-3,1-4,1-6のどれかが来ますように」。と熱心に拝んでいる人がいたとして、私がギャンブルの神様だったら。「この人の願いをかなえてあげることがこの人にとって本当に幸せなことかどうか」迷うと思います。

 よしんば、「この人が当ることは、女房や娘さんに幸せな結果になるかどうか」。と考えれば、一概にギャンブル好きに、第3レースを当てさせてやることがいいことではないと判断するかも知れません。いや、いや、所詮勝負事の神様ですから、そこまで深読みして一人一人のことなど考えないかも知れません。

 勝負事と言うのはそもそもが理不尽に富が偏ることが目的ですから、元来、勝負に因果関係などありません。「なぜ宝くじが当たったんですか」。と当たった人に聞いても、その因果関係は誰も答えられないでしょう。

 親孝行だから、真面目に生きているから、人に優しいから当たると言うこととは全く関係ないでしょう。むしろそうではない人の方が往々にして当たるはずです。理由もなく当たるのが勝負ですから。

 第一、努力をすれば報われる。などと言う道徳的な答えを言われることこそギャンブラーにとっては不愉快でしょう。多くの神様に手を合わして願い事をするギャンブルマニアは、ほとんど天から札束やクルーガー金貨が落ちて来ることを願っているのです。理由なんかありません。自分だけよければいいのです。人が何を思おうと自由ですから、それはそれで結構です。但し、神様がそれに付き合う義理はないのです。

 

 と言うわけで、私は神様に何をお願いするわけでもなく、40年間、日本芸能神社を祭って来ました。その間には幾つもいいことがたくさんありました。でも、それは神様をお祭りしたからだ。とは思っていません。神様とは関係ない、自分の才能だ。とも思っていません。そこに因果などないと思っているからです。

 但し、毎日神棚に手を合わせることはいいことが一つあります。それは人間が謙虚になることです。世の中には、自分の力以上の見えない力があって、それが人間や、生物の生活を左右しているんだ。と言うことを自ずと知ります。そして、それに感謝をして手を合わせます。この謙虚さがいいのだと思います。

 神様に手を合わせるようになると、何気に人が自分に何かをしてくれたことに対しても自然に「有難う」。と言えるようになります。これが結果いい人間関係を生み、自分自身の活動が円滑に進むようになります。

 こう書くと、私はお寺の坊さんのように徳を積んで生きているように見えますが。そうではありません。むしろ真逆な性格です。時々、気まぐれに、少しいいことをして生きて行こう。と思っているだけです。

 若い人のマジックショウを見に行っても、時々「ひどいなぁ、何でこんなつまらないマジックをするのかなぁ」。と思うことがありますが、否定的な言葉が出る前に、「まぁ、芸はひどくても、悪気があってしているわけじゃぁないし。マジックは下手でも、人を殺したわけでもなく、人に怪我を負わせたわけでもないんだから、ここはにっこり笑って見よう」。と思います。つまらないものを見たと言う、時間の無駄と、ひどいマジックによる心の傷を隠して、今日もにこにこ笑いながらマジックを見ています。

続く