手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大晦日に憩う

晦日に憩う

 

 28日は、年明けからの博覧会の舞台の稽古をしました。ほとんど私と大成を中心とした舞台ですが、手妻で傘出し、蝶を致します。場所は、1月7日がいわきの文化ホールです。27日は浅草公会堂です。内容はともに同じ、伝統産業の職人の実演展示会をロビーで行い、私の手妻をステージで致します。詳細は東京イリュージョンホームページをご覧ください。チケット予約も受け付けています。

 一昨日(29日)、昨日(30日)と大掃除を済ませ。今日は朝からシャワーを浴びて、汗を流しました。12月31日にのんびり丸一日休めたのは何年ぶりでしょうか。舞台の仕事を続けて来ると、年末も正月もありません。

 元旦からホテルのショウなどに出演するときは、大晦日が移動日になって、夜に現地について、舞台を下見して、リハーサルをして、深夜に寝ることになります。全く大晦日の風情などありません。正月になればいきなり朝から舞台です。

 正月のテレビ出演なども、大晦日に撮影することがあり、スタジオと楽屋をうろうろ移動している際に、楽屋の前を歌手がたくさん通るので「何があったんだろう」。と思っていると、NHKホールで紅白歌合戦の本番をしている最中でした。「あぁ、今が紅白の本番なんだ」と改めて知ったわけです。

 でも肝心の紅白は見ることが出来ません。同じ建物の中で仕事をしていても私のほうもリハーサルをしていますから、一切見ることは出来ないのです。年末年始の渦中にいる人と言うのはそんなものなのでしょう。

 もう十年くらい前の事になりますが、神田明神に、「神田の家」と言う、明治時代の商家を移築して保存している建物があります。ここで毎月手妻の公演をしていたのですが、ある時、大晦日の参詣客に、休憩も兼ねて、手妻の公演を見せたらたくさん来るんじゃないか、と思い、深夜12時30分から神田の家で手妻公演をしたことがあります。

 その晩は寒い日で、たくさんの参拝客が行列をしていました。チラシを配って、声を掛けましたが、矢張り深夜と言うこともあって、なかなか寄り道をしようとする人がありません。ようやく10人になったので、公演しましたが、事前にポスターを貼るとか、チラシを近くの商店に置かせてもらうとか、いろいろしないとやはり人集めは難しいようです。

 しかしこの間、明治時代の古民家の中で、じっとセットアップをして、開演を待っている気持は、明治時代の芸人の生活を感じさせ、いい雰囲気でした。室内は暖房が効いてはいますが、結構寒く、外の風でガラス窓が揺れるさまは昔の生活の儘です。

 すべて公演が終わって、片付けて、深夜3時ころに車で弟子と一緒に自宅へ帰る時にはずいぶんと疲れました。大晦日から正月にかけての初仕事でしたが、初めの企画では「もし、お客様がたくさん押し掛けてくるようなら、一回目が12時半、二回目が2時、三回目が3時半でやりましょう」。などとのんきな話をしていたのです。もし本当にお客様がたくさん来ていたなら、元旦早々、飛んでもなくきつい労働を強いられたことになったでしょう。

 

 別府の杉乃井ホテルに年末から正月にかけて出演したことがありました。まだ20代の頃です。年末までは燕尾服を着て鳩出しをして、正月からは和服で蒸籠などをしました。日にちを変えて二つの演技をするのは珍しく、ホテルからは喜ばれました。その大晦日ですが、夜のショウを終えて、ホテルの部屋に戻っていると、フロントから連絡がありました。降りて見ると、平塚さんと仰って、別府のホテルでマジック用具を販売している人でした。無論よく知っています。

 「多分どこにも行かずに部屋にいるんじゃないかと思って来たんよ。これから神社にお参りに行くけど一緒に行かんか」。親切に初詣のお誘いを受けました。舞台が済んでかたずけを済ませたのが9時ですから、今からどこかに行って呑んで騒いでと言うのも億劫に思っていましたが、お誘いとあらば付いて行きます。

 平塚さんは車で来ていました。現場で車を降りて神社に向かう途中がかなり寒かったのを覚えています。どこの神社のお参りに行ったかは覚えていませんが、帰り道の喫茶店に入って、甘酒を飲みました。その時に、平塚さんから「人が足らんのよ。誰か若い人はおらんかいね」。と尋ねられました。その時、私は、一人アシスタントを連れて来ていました。それは渚先生のところで、弟子入りしたいと押し掛けてきたA君です。

 ところがこの時、渚先生は人が余っていて、とてもA君までは養って行けません。しかも、結構ぼんやりした性格のために、「彼はこの道は無理だねぇ、藤山君のところでどうだい」。と私に囁いて来ました。それがたまたま私に長期の仕事が入って来たので、人手が欲しくて、渚先生からA君を借りて、九州方面の仕事に出かけました。A君は思わぬ長期の舞台出演で大喜びです。そして、この仕事の最終週が別府の杉乃井ホテルだったわけです。

 わたしは、A君に、「この仕事が終わったら私の手伝いは終わりだから、又渚先生のところに戻るといいよ」。と言うと、「あの、先生は僕を育てるのは無理だから、藤山さんの世話になれ。と言われました」。互いにA 君を押し付け合っていたのです。

 ここで、平塚さんの言っている言葉と、A君の言葉が繫がりました。「いますよ。A 君です。彼はこの仕事が終わったらほかに行くところがありません。別府で、マジックの道具を売りながら、ホテルショウの仕事でも出来るなら、好きなマジックで生きて行けるのですから、ちょうどいいのではないでしょうか」。「いや、藤山さん、そんな簡単にA君が承知するやろか」。「話してみましょう」。

 ホテルに戻って、早速A 君に話すと、マジックが出来て、食べて行けるならそれでもいい。と言います。それなら早い方がいいと言うことで、杉乃井のショウが終わったら、そのまま彼をおいて行くことにしました。無論、渚先生には報告をしました。先生も、「君は上手く話をまとめるね」、と言って褒めてくれました。

 それから毎年、別府に行くとA君は訪ねて来て、「結婚しました」。「子供が出来ました」。と報告をしてくれました。結果として彼にはいい人生につながったのです。初詣は自分だけでなく、周囲の人までも幸せにすると言う一席でした。

続く