手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

スピリット百瀬をしのぶ祭

スピリット百瀬をしのぶ祭

 

 「人は亡くなって初めて評価が決まるんだな」、とつくづく思いました。昨日(9月18日)、浅草公会堂で催された、「スピリット百瀬をしのぶ祭」に伺いました。百瀬さんとは色々とご縁がありました。そのため、冒頭に私に挨拶をしてくれと頼まれたのでしょう。どうもこのところ挨拶をする機会が多くなりました。私もそうした年齢になったようです。ただ、挨拶をする人と言うことは、次に偲ばれる立場になると言うことでもあります。

 昨日は、12時30分に車で浅草に着きました、わざわざ車で出かけたのは、着物を着て行ったためです。追悼の挨拶をするために、芭蕉布の着物と黒の絽羽織を着ました。百瀬さんに対する敬意からそうしました。でも、見た目は噺家です。

 弟子の朗磨の慣れない運転は不安でしたが、何とか浅草にたどり着きました。時間がありますので、浅草の長浦蕎麦に行こうと思いましたが、その日は祝日で、長浦の表は行列です。浅草は上手いものを出す店は数々ありますが、それでも普通より少し変わっているとか、少し旨い、と言う店ばかりです。炎天下の中並んで、30分、1時間待って食べるというのはどうもなぁ。と敬遠します。

 どこかないかと見ると、「ぱいち」がありました。もう50年前から時々行っています。目当てはビーフシチューです。ところが店で食べているお客様を見ると、みんなカツライスを食べています。店に聞くと定食だそうです。まぁ、カツも結構だけど、とにかくシチューを頼みました。さて出てきたものは、昔通り。と言いたいところですが、かつての濃厚な味わいがありません。残念。

 

 しのぶ会は14時の開催ですが、ぱいちと公会堂はすぐ近くですので、1時20分には公会堂に着いてしまいました。喫茶店にでも入ろうかと思いましたが、どこも行列です。浅草は祝日に行く場所ではないようです。仕方なく、少し早いのですが会場に入りました。すると主催者の能勢裕里絵さんがいました。5階に来賓控室があるそうで、そちらに通されました。

 私はかなり早く来たため、その後に続々と懐かしいメンバーが揃いました。小野坂東さん、パピヨン大西さん、あさのよしてるさん、バーディー小山さん、真田豊実さん、スガヤ幸一さん、ミスターマリックさん、名古屋勢が多いのが特徴ですね。でもよく百瀬さんのために名古屋から来てくれたものだと思います。

 

 14時30分からしのぶ祭が開催されました。浅草公会堂の1階、展示場を借り切って、百瀬さんの若いころからの写真を並べて、マジックグッズを展示して、更に夜店風にしつらえてあります。聞くと40人ほどの有志が集まって、この催しを企画実行してくれたそうです。凄いことです。実際会場に行くとかつて、マジックの催しに集まっていた、アマチュアの皆さんがたくさん手伝っていました。

 今では東京で、レクチュアーや、各種催しがほとんどなくなってしまったため、一体アマチュアはどこへ行ってしまったのかと思っていました。でも確実に仲間はいたのです。あぁ、この人達の思いを何とか形にしなければいけない。

 

 さて、私は追悼の挨拶をしました。原稿はレポートに4枚書いてきました。無論原稿を読むことなく話をしました。話は少し長いのですが、要約してお話しすると、

 「初めて名古屋のエルムと言うマジックバーで会ったときのこと(1971年)。それからしばらくして、私がSAMの組織を起こして、国内で毎年コンベンションを始めた頃、知人の紹介で百瀬さんと会ったこと(1993年)。その間に百瀬さんはアルコール中毒にかかり、寸借詐欺を繰り返し、社会からはじかれていたこと。しかしその後一切酒を断ち、更生して復帰したこと。

 百瀬さんをSAMに入れることは多くの仲間が反対をしたのですが、私の判断で入会を認め、更に支部会長を任せ、その上、ゲスト出演や、アメリカ大会に推薦しました。また、当時SAMは若い会員がたくさんいたために、様々なレクチュアーなどの催しを企画していて、その催しに加わってもらい随分百瀬さんの出番を作りました。そのことを百瀬さんは終生感謝をしてくれた。と言う話。

 百瀬さんの人生を最高に幸せにしたことは、生徒に能勢裕里絵さんが入って来てくれたこと。彼女が来てからの百瀬さんは裕里絵さんを娘のように可愛がって、彼女がコンテストに優勝したりすると何度も喜びを私にまで伝えてくれたこと。彼女の成長が、百瀬さんの生きがいだったのです」。と、そんな話を長々お伝えしました。

 

 マジシャンとして百瀬さんを見たときに、氏は大変なあがり症で、手が震える上に、まともに正面切って話が出来ないのです。そのため出て来て、前に座っている知り合いを長々いじったりします。そんなことをしたら、ほかの観客がだれてしまうのに。当人は、なかなか本題に入れずにうろうろとします。それを見て私は。「あぁ、この人はプロにはなれないなぁ」。と思いました。そのため、ちょっとした催しに出てもらうのはよいとしても、大切な催しのゲストには頼めない人だと思ったのです。

 そのことは当人も了解していたようです。スピリット百瀬と言う人は、マジック愛好家の中のこだわりの職人のようなポジションの人だったと思います。百瀬さんのマジックは万人の観客を相手にするマジックではなく、言ってみれば、自分が納得く出来る芸を突き詰めることだったと思います。良く言えばストイック(求道者)であり、自己の探求だったのです。

 然し、そうした人であるにもかかわらず、こんなに多くの人が百瀬さんを慕っていたと言うのが驚きでした。百瀬さんが持っていた、マジックに対する純粋さが、しっかり多くのアマチュアに伝わっていたのです。

 百瀬さんはマジック界で大きな名前を残した人ではありません。大きく稼いだ人でもありません。でも確実にコアなファンに慕われていたのです。亡くなって3年経ってもファンはこうして集まって来ます。よくよく考えてみれば、百瀬さんはそうした人達と付き合って生きて行くことが幸せだったのではないかと思います。そうなら、百瀬さんは自分の生きたい道を全うした人だと言えます。

 つまり、私が初めに述べた、「人の評価は亡くなって初めてわかる」と言う結論に至るのです。いい人生でしたね。合掌。

続く