手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

真似ることは学ぶこと

真似ることは学ぶこと

 

 ひとからマジックを習うと言うときに、多くの人は現象や、手順を習い、それを実際演じて行く過程で、真似でない、独自の演技を加えて行き、変化を作ろうとするのですが、どうしても、教えてくれる先生の影響が強くて、どこかに先生のイメージが残ってしまい、細かな所作のところどころに影響が出てしまう場合が多々あります。

 それが無意識に似てしまう場合もあれば、確信犯の如く、丸ごと、タイミングや、表情まで真似てしまう人があります。これまでも、弟子や、生徒さんに指導をしていると、実にうまく私の癖を取ろうとする人がいるので、時として恥ずかしい思いがします。

 恐らく私の演技をビデオで撮って、何回も何回も見続けたのでしょう。そして、ビデオに合わせて、何十回も、同じ動作をしてみたのでしょう。そうすると、だんだん私の呼吸が分かって来ます。今何を考えて演技をしているのか、徐々に見えて来ます。

 やがて、私の演技の構成が理解できるようになり、観客の気持ちをどう乗せて行くかの策が見えて来ます。それは往々にして、自身が思っていたこととまったく逆の展開である場合があります。この辺が芸能の面白いところです。観客として見ていたのでは本質は全くわかりません。

 芸能は様々なところに工夫が凝らされていて、しかもその工夫がお客様に悟られないように、表に出てこないように隠してしまう場合が多いので、なかなか読み取ることができません。わずか五分の演技でも、終盤に至る所で、アッチェレランド(テンポを速めて行くところ)をかけて、分からないように、テンポを変えて、演技の終盤を盛り上げて行ったりします。

 そのテンポが露骨に変わっては作為が見えてしまいますので、いつテンポが変わったか、そのスイッチがどこから始まるのか、それをお客様に感づかれないようにアップテンポに切り替えて行きます。そこが、長く舞台に生きて来た人のみが出来る、芸能の技術です。弟子は、何百回と私の演技を手伝いつつ、それを把握します。

 お椀と玉や、植瓜術(しょっかじつ)、或いは札焼き、柱抜け、洋装でも、卵の袋や、12本リングと言った、喋りを主体とする演技は、ただだらだらと喋っていては、盛り上がりに欠けます。そこで、少しずつテンポアップを図ったり、急に遅くしたりして、喋りの終盤に至ってはほとんど余計なセリフを交えず、快調速で走り抜けます。

 そうすると観客は自然に期待が高まり、「この先どんな展開があるのだろう」と、結末を期待します。観客を乗せるだけ乗せて、一気呵成にお終いに持って行くと、観客はその快調速に乗って、一緒に空の彼方へ飛んで行ってしまいます。上手く嵌った時にはこんな気持ちの良いものはありません。

 

 逆に、終盤に来て、いきなりリタルダンド(テンポを落とす)をかけて演技が止まったり、スローになったりすることで、観客に記憶をよみがえらせたり、テーマをもう一度印象付けたりすることがあります。これは私が良くやる手です。蝶、や、引き出しのお終いに傘を出す演技などがそうです。

 それまで快調速で進んできた演技が、突然動きが止まって、表情は天を眺めます。お客様は一体何が起こったかと思います。蝶なら、そこで再度、子供の蝶の誕生を知らせます。傘なら、ぽつりぽつりとにわか雨が降ってきたことを知らせます。

 蝶は、半紙をちぎって、蝶をこしらえる所から始まり、蝶が舞い、やがて二羽の連れ舞となり、やがて動かなくなります。そこでしみじみ天を眺めて、蝶の亡骸を扇で煽ぐと、新たな生命が誕生して行きます。

つまり、蝶の一生を終えたところで、演技は止まり、音楽も止まります。完全な休符を付けたことで、一瞬、何事かと思いますが、やがてお客様は生命の第二章が始まったことを知ります。ものは消えてなくなることはなく、形を変えて生きて行くと言う、無常観を伝えるわけです。

 引き出しの演技も同じようなことです。引き出しの前には、傘を出す手順があって、傘を構えて見栄を切るのですが、空が晴れて来たと言う思い入れで、傘を畳みます。そして、引き出しを持ち、煙管を咥えて、さて一服しようかと思っていると、箱の中から玉が出て来ます。

 玉が出たり消えたり色が変わったり、いろいろ遊んでいるうちに、絹の帯が出て来て、さて、ここらで煙草を一服。と思っていると、にわか雨が降って来ます。何とも始末が悪いと思って、絹帯の中を見ると、中から傘が出て来て、にわか雨の中を傘を出して、初めの格好に戻ります。

 つまり引き出しの3分半の演技と言うのは、にわか雨とにわか雨のほんのわずかな時間の出来事だったと言うわけです。

 そうしたわずかな時間の演技に対して、どんな表情を付けるかどんな所作をするか、どうお客様にこの世界を伝えるのか。それが私の仕事です。私を見なければ生涯接することのできない独自の世界を見せたいのです。

 通常傘を出す演技は、パッパと次々に傘を出して、スピードで見せようとします。

それが私の演技は、リタルダンドをかけて、思い入れを加えます。マジックをする人が考えもしない演技です。然し確実に観客にその印象を残します。傘を10本、20本と出すよりも、一本一本に意味を持たせ、わずか4本の傘を出すことの方がよほど印象が強く、洗練されたものに見えるはずです。

 よく手妻とマジックは何が違うのですか。と尋ねられますが、それは手妻にはなぜそうなるのかという因果が求められるのです。無論、何の意味もなく不思議を演じる手妻もありますが、手妻の名作と言うものには、意味が語られています。

 意味を理解して、私の演技を真似て行くならいいのですが、時として、表情を真似たり、見栄を真似たりして、外見だけを模写する人がいます。蝶の吹雪にしても、二回に分けて撒くと言うのは私だけの演技です。何千年もの手妻の歴史にはなかったのです。それが、結構それを真似して、しかも、天をにらむ表情までそっくりに真似る人があります。

 真似られることはいいことではありませんし、私の嫌な癖まで取られるのは見ていて恥ずかしくなります。弟子ならまだ致し方ないと思いますが、見たことのない親父さんが気分よさげにそっくりに演じるのを見ると、逃げ出したくなります。

 それでも真似ているうちに手妻の本質を掴んで行くならば、真似は生きて来るのです。人の成長の手助けをしたんだと思えばそれも致し方ないか。と思います。

 まなぶは真似ぶから来た言葉だそうです。知識を身に着けるのは、まずしっかり元を真似て、基礎を写すことから始まるのだそうです。以前歌舞伎の幸四郎(現白鴎)さんが仰っていましたが、真似のうまい人は上手くなる。のだそうです。上手くなりたければまず真似ることなのでしょうか。

続く