手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

絵に納まる 2

絵に納まる 2

 

 一つの社会に入ってしまうと、その業界の研究に没頭し過ぎて、本質が見えなくなって、隣近所の仲間の反応ばかりが気になって、いつしかお客様の求めているものを見失ってしまう。と言うことは頻繁に起こることです。

 巨大な自動車会社ですら、社内で何千回、何万回と新車の性能、デザイン、燃費などを研究し、頭のいい人たちが集まって会議を重ねた末に、これなら絶対だと出した車が大コケにコケて、会社自体が傾いてしまうと言う例はいくつもあります。

 後になって、あれほどの大会社がなぜ、あんな車を作ったのか。とあきれられるような車を何千億円もの費用をかけて作って、作った後で失敗に気付くのです。

 これが一概に、お客様を見ていないからいけないとは言い切れませんが、ことほど左様に人は人を見ないで、自分に都合のいいものの考え方をします。会社内のみんながみんな、これなら絶対大丈夫だ。と思い込みますが、それは自分にとっていい作品であって、人が感動する作品ではない場合があるのです。

 疑う前に戦前の太平洋戦争を考えてみてください。帝国大学を出たエリートの人たちがみんなで集まって、絶対に勝てるわけがないアメリカとの戦いをやってしまったのです。なぜですか?。それは、どんなに頭のいい人でも必ず自分に都合のいい答えを導き出してしまうからです。物事に自分が加わると、IQなんか関係なく人は間違えるのです。

 

 技術者は、とかく自分の技術を過信して、優れた技術ならいいものだと勘違いをします。マジックも同じです。マジシャンは良く、「これだけ練習したのだから」。「こんな技術を持ったマジシャンは他にはいないのだから」。と自負して、舞台に挑んだにもかかわらず、観客は一瞥もくれずに撃沈することが多々あります。

 手段を目的化して、技法に心酔して、芸能に挑もうとすると、全く観客は反応しないのです。幾らうまくても、「巧いね」。と言われて終わってしまいます。巧さが観客の感動に結び付かないのです。なぜか、それは技術が技術の儘だからです、技術を駆使した末に芸能を作り上げていないのです。

 

 話を始めに戻しましょう。私は、35の時くらいから、この先、一般の観客を集めてマジックをするなら、自分自身のしているマジックが本当に人に役に立っていなければ無理だと考えるようになりました。そこを考えずして、一般の劇場でチケットを販売しても観客を集めることなど不可能なのです。

 実は、私は33歳の時に既に芸術祭賞を取っていて、それなりに技量は認められていて、舞台活動は忙しかったのです。然し、その後になっていろいろと考えて行くうちに、私のマジックは偽物だと気付くようになったのです。「私は人より要領よく、小器用に活動しているだけなんだ」と気付いたのです。

 

 平成5年に、バブルがはじけて、イリュージョンの仕事が激減しました。然し、水芸などの一連の手妻の仕事は減っていなかったのです。なぜ手妻が減らないのかその時はわかりませんでしたが、手妻を攻めて行けば生き残りのチャンスはある。とは一種の勘で気付いていました。然し、子供のころから続けて来た、手妻の、どこを改めて、どこに改良を加えたならいいのかが皆目わかりませんでした。

 現実に依頼があるから手妻に生き残りのチャンスがある。と思い、でも、このままではだめだ。何をどうやったらいいのか。そこに答えが見いだせないで一人で苦しみました。

 ある時、傘の手順を見直して作り直してみよう。と考えて一人アトリエに籠って、いろいろハンドリングを考えたり、何日もかかってホルダーや、仕掛けを作ってみました。でも、一本傘を出した後、もう一本出そうとすると、今までなら何ら躊躇することなく二本目の傘を取り出す手順を考えたのですが、「なぜ二本傘が必要なのか」。と考えてしまうと、手順作りは全く前に進まなくなってしまいます。「数で解決すること自体が西洋マジックで、手妻とは遠いものだ」。と気付くようになります。

 いつの間にか、私の手順を作る発想が、西洋マジックに染まってしまっているのです。技法から割り出して、即物的にものを取り出してゆく考えから抜け出せないのです。西洋のマジシャンを見ていても、彼らのすることは。早く、たくさん物を出すことにこだわっていました。どうもこれは大きな世の中の流れを見ても、限界があると感じました。

 

 一徳斎美蝶は演技のお終いにたった一本の傘を出して見得を切って終わっています。余計なことは何一つなく、一本傘を生涯演じ続けたのです。私は美蝶の演技は子供のころ一度だけしか見ていません。その時はいいも悪いもわかりませんでした。然しよく考えれば、美蝶の演技は手妻そのものでした。何が良かったのか。

 彼は、座ったまま皿回しや曲芸を演じ、演技のお終いに、延べ(細い帯)を何本も取り出し、まとまった延べの中から大きな傘を一本出して、座った状態で膝立ちして見得を切って終わりました。この型は100年は続いてきた演技だったのでしょう。

 痩せて小さな年寄りが、黒紋付に袴姿で座りで見得を切って、それでおしまいです。子供心にそれがいいとも悪いとも思いませんでした。然しよくよく考えてみると、この絵柄はまさしく江戸のマジックでした。

 何が良かったのか、考えました。見得を切ったときに、いかにもこんな手妻師が江戸時代にいたのだろう、と思わせる、古風な風貌を見せていました。「あの人は、自分が遥か彼方の手妻師になり切って、その姿を見せることに自身の価値を見出していたのかなぁ」。と思いました。

 美蝶のしたことは、何本傘を出したかではなく。どこから傘を持ってきたかでもないのです。それよりなにより、一本出した傘でどんな世界を観客に印象付けるかに目的があったのです。一本傘を出して、さっさとアシスタントに預けて、次出す傘のことを考える。そんな演技は手妻ではないのです。あの美蝶の姿、顔、そこにこそ手妻があるのではないかと気付いたのです。

続く