手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

繁栄と衰退

繁栄と衰退

 

 私がはじめてアメリカに行ったのは、昭和54年でした。それから毎年出掛けて、長いときには3か月もアメリカに滞在していました。何をしていたのかというと、先ず、マジックキャッスルに一週間出演しました。それから、アメリカ各地の地方都市でレクチャーを繰り返し、そしてマジックコンベンションに出演して、あわよくば、テレビ出演などもしていました。

 映画で見るアメリカは。個人の家も大きく、町と町はハイウエーでつながっていて、どこに行くにも自動車で移動をし、買い物は、週に一辺大きなストアで大量に買い物をし、食料を入れる冷蔵庫は、日本の3倍も大きく、何もかも豊かで、生活のしやすい国に見えました。

 実際の私が出かけた時も、その通りで、物は安く、家もアパートの家賃も安く、余り他人に干渉しないため、目に見えないルールに縛られることもなく、暮らしやすい国に見えました。

 但し、日本より早くにインフラ整備が完成したため、1980年代で既に、高速道路も、橋も、建物も古くなっていました。高速道路は全国どこも無料でしたが、その道は、信じられないくらい凸凹で、道が大きく割れていたり、コンクリートが大きくはがれているところがいくつもありました。時に、運転していて、コンクリートのブロックが飛んできて、後続車とトラブルになることもありました。車はそうした危ない道路を知っているのか、うまく避けて走っています。

 何よりも驚いたのは、ダウンタウンです。1980年代になると、アメリカ人は、ダウンタウンの治安が危険なため、町の中心から離れて、郊外の静かな住宅街を買って住むようになります。

 それまで所得の高い人たちが住んでいた町も、古くなって住人が去り、その後、安い家賃にひかれて、低所得者が住むようになると、急に町の治安が悪くなって行きます。すると、昔の立派な屋敷が、売りに出されて行きます、2000万円とか3000万円などと言う、日本で言う建売住宅のような価格で売られていたりします。

 それが煉瓦造りで、チムニーのある、立派な屋敷で、外は芝生が植えられていて、家と家は少なくとも10mくらいは離れています。田園調布でも目黒の碑文谷でもこれだけの屋敷街はそうそうはありません。それが高所得者が去って行って、家は二足三文で売られていました。

 私などは、車で移動する際に、そうした家を見ると、すぐに車を止め、家を見に行きました。マネージャーのアーノルド・ファーストさんは、「駄目駄目、ここは黒人の多いところで、毎週のように暴動の起こる所です。家の中のものは何でも持っていかれます。警察もあまりにトラブルが多くて、助けを求めても、ほとんど来てくれないところです。家は立派ですが、余りに危険です」。

 治安が悪く、警察から見放された地域は、いくらダウンタウンの近くにあったとしても、家はほぼ無価値になってしまいます。

 又、ダウンタウンの商店も、昔のフレッドアステア(古いですね)の時代だったなら、洒落た綺麗な商店がずっと続いていたであろう石造りの街並みが、見るからに荒れ果てて、閉まっている店ばかりが目立って、盛業している店が少ないため、そこの立ち寄る人も少なく、雑貨屋や、レストランを除いては、どこも商売として成り立っていないような店ばかりでした。

 それはロサンゼルスのダウンタウンも、ハリウッドのダウンタウンも似たり寄ったりで、ピッツバーグや、デトロイトダウンタウンなどはゴーストタウンであるかのように錆びれていました。ピッツバーグデトロイトと聞くと企業城下町で、町自体が活気にあふれた都市かと想像していましたが、ダウンタウンには失業者が降れ、町はごみが散乱していました。

 有名な店はみんな郊外の金持ちが住む住宅街に移って、そこに高級なショッピングセンターを作っています。ダウンタウンはビルは立派ですが、近付いてみると建物は廃墟が多く、多くの建物はガラスが割れていました。

 勿体ないことに、石造りの10階、15階建ての建物が、そっくり住人がいないのです。一階の商店街はほぼから、二階より上のオフィスも、7階以上上のアパートも、誰も住んでいないのです。勿体ない話です。

 

 そうしたアメリカの都市を見て回って、日本に帰って来ると、昭和50年代の日本の商店街は活気がありましたし、間口二間三間と言う小さな店がひしめき合っていましたが、そんな小さな商店でも人の出入りが頻繁で、どこも商売が成り立っているように見えました。

 それが、平成になってバブルがはじけると、急に人の流れが変わって行きました。商店街から人が去り、郊外のショッピングセンターに移って行きました。地方都市でも、中心街に人が集まらなくなり、町が大きくなって、どんどん郊外に人が移って行きました。「あぁ、日本もアメリカと同じ道を辿っている」。

 どうも、アメリカと日本を比べて見ると、20年経つとアメリカと同じ現象が日本起こることが分かります。以前、東名高速道路のトンネルが天井が崩落して、車を運転していた何人かの人が犠牲になりましたが、あれこそ、私が20代で体験した。高速道路のコンクリートの崩壊でした。この先あんな事故が増えるぞ。と思いました。

 

 さて、全く日本で起こった様々なことが、実はこの先、中国や、韓国で起こって来るでしょう。国や町がどんどん発展して行って、将来はバラ色の生活が約束されると信じていたものが、実は、多くのインフラが耐用年数が来て、どんどん壊れて行きます。日本が、昭和63年に、繁栄を謳歌したすぐ後にバブルがはじけて行ったように、いや、むしろその時以上に、韓国や、中国の衰退は、速足でやって来そうです。

 まだ日本は、インフラや、建築物にしっかり金をかけますし、造りも強固です。日本橋三越デパートは、大正時代に建てられましたが、いまだにどこも壊れることなく、美しい建物が維持されています。東京駅も大正2年に建てられましたが、令和の大修復の後、復活しました。東京には100年以上たっている建物がたくさんあります。

 いい街住みやすい街というのは、繁栄の結果、何を残したかにあるように思います。いくら儲かっても、安っぽい家をどんどん立てて、50年もするとあちこちガタが来て立て直しをしなければならなくなりよりも、いい建物を作って長く残すことの方がどれほど大切か知れません。

 日本は、新幹線、青函トンネル、本四架橋など、物凄いいい仕事をたくさん残しています、それらが、今多くの観光客を集めています。いいものを残す、というのは当たり前の話ですが、とても大切なことです。

 さて、中国、韓国はこの繁栄の末に何を残すのでしょうか。みんな武器に変えてしまうのでは勿体ないと思います。

続く