手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

りゅうちぇるさんの死

りゅうちぇるさんの死

 

 昨日youtubeを見ていて、タレントのりゅうちぇるさんが死亡したことを知りました。恐らく今日はその話題でネットが大騒ぎでしょう。

 私はりゅうちぇるさんに会ったことはありません。全くテレビで見ていただけの印象しかありません。然し、彼を見ていると、常に自分の居場所を探して迷走を繰り返しているように見えました。常に目まぐるしく変えるファッション、ヘアスタイル、メーク。見るたび前に見たスタイルをそっくりひっくり返すようなスタイルに変貌しています。

 そして、そのスタイルがどれも説得力があるのです。とんでもない恰好をしても、人を納得させる力を持っています。彼は画家でもなく彫刻家でもないのですが、自らの体を使って、自分を創造しているのです。

 つまりこの人はアーティストなのです。自分自身を使って、独自のファッションを作り、同時に自分を今まで経験したことのないような世界に持って行こうとしているのでしょう。

 但し、彼が自分自身を変えようとするのは、変身願望なのか、いやいやむしろ、多分に仮面をかぶることで自分を隠しているのではないかと思いました。彼は自分に自信が持てないから変身するのではないようです。むしろ、かなり自分の容姿には自信があるはずです。

 ただ、恐らくその生きてきた人生に闇があるのでしょう。ここから先は全く私の推測です。タレントに多い、子供のころの貧困だとか、両親の関係が複雑だとか、余りに周囲の人と違う性格のため、学校に馴染めなかったとか、友人がいないとか、芸能人の心の奥には子供のころからの悩みを持っている人が多いのです。

 才能があると言うことは、それだけで人と違う存在です。ところが、人と違うと言うことは、多くはいじめの対象になります。「変だ」、とか「きもい」、とか言われ、毎日虐められます。更に親の生活が貧しかったり、両親が離婚していたり、病気を抱えていたり、生きて行く上でわずかでも負の部分があると子供は容赦なく虐めます。

 タレントの多くは、そうした同級生からの中傷を、子供のころから経験して生きて来た人が多いのです。また、自分自身に独特な才能がある人は、その才能が幼いころは生かす場所が分からず、常に空回りをして、周囲と馴染めないのです。仲間や家族に迷惑をかけたりします。社会とつながりが持てないのです。

 まるで社会の落ちこぼれのような生き方を体験したりもします。どうもりゅうちぇるさんの少年期はそんな生活を経験して来たのではないかと思います。そして、名前が売れてから以降も、自分が何者なのかが見えずに迷走を続けていたのではないかと思います。こうした人生は苦しく、寂しいものです。

 やがて、何かのきっかけで生きる道を見つけたり、自分の才能を形にできるようになったり、自分の生きやすい場所を見つけたりすると、才能が開花して、人に注目されるようになり、職業になり、タレントとして活躍するようになって、初めて、自分自身の存在を知るのです。

 但し、それは芸能で成功した人の話であって、ほとんど芸能に携わる人たちは、自分の心の奥にある思いを形に変えることも出来ず、何をしていいかもわからず、ただ、人に遅れて誰でもするようなことを繰り返すことで、一生を終えてしまいます。才能と心の思いがつながる人はわずかなのです。

 また、芸能で成功した人でも、何年か活動を続けて行くと、全くテレビ出演もなくなり、芸能の大きな流れから外れて、収入もなくなって行きます。かつてもてはやされていた自分は一体何だったのかと、まるで夢から醒めたような心地になります。

 

 芸能には形がありません。創造した世界が全てです。芸能とは、言ってみれば、飛行機に乗って、飛行機雲で絵を描いているようなものなのです。それがどんなに優れた絵であっても、時間が来れば、跡形もなく消えて行きます。

 芸能とは儚いものです。消えてしまえば何も残っていないのです。人気があって、収入があって、人が自分の才能を誉めそやしてくれている時には気が付かないのですが、一旦流れが負のスパイラルに入って、うまく行かない日々が続くと、いわれなき誹謗中傷が繰り返されたり、仕事が激減したり、やがて成功の影にある奈落が見えて来ます。

 成功と没落は全く違う世界なのかと思っていたものが、実はそうではなく、常に成功の背後に没落が待っているのです。ある日、必死になって自分が創造をしてきた世界が、虚構であることを知ります。にもかかわらず自分の居場所がそこにはなかった、と知ったときに、生きることの虚しさを知ります。

 

 昔、初代引田天功さんが、普段に金のブレスレッドや、カフスボタンをしているのを見て、私は羨ましく思い、「いつか自分も稼げるようになったら、そうしたものを買ってみたい」。と考えていました。そして、実際に稼げるようになって、金のカフスボタンを買いました。買った当初は嬉しくて、普段でも使い、使わなくても毎日箱を開けては眺めていました。

 当初は、いいものを身に付けたら自分自身も変わるのではないかと思いました。然し、何も変わりませんでした。金(きん)を持っている、毎日眺めている。それが人生でどう変わるのかと思いましたが、何も変わらないのです。箱を開けて中の金を見ている自分は、宝石店のショーウインドウの向うで宝石を眺めている自分と同じだったのです。

 「何だ、金を持つってこういうことか」。そう思った時に、宝石を買うために働いたことの無意味を知りました。いいものを持つことは大切なことではありますが、実は心の充実とは何のかかわりもないことだと知ったのです。

 やがて、そんなことよりも自分自身がしなければならないことはもっともっとたくさんあるはずだ、と気付きます。ここで自身のなすべきことが見つかる人は幸いです。でもやるべきことが見つからないと金を持つ前よりも苦しむことになります。

 金を身に着けても、輝いているのは金であって、自分ではないのです。それで本当に心が満たされるのか。そこに気付いたときに、名を成し、人一倍稼いだ天功さんの孤独が見えたような気がしました。

 

 さて、りゅうちぇるさんは、自分を変身させて、自分を変え続けて、それが多くの人の話題になりました。私にはできない飛び抜けた才能です。然し、そもそもなぜ自分を変身さなければならなかったのでしょうか。自分を変えて、変えて、その先に、自分の真実を突き付けられて、逃げ切れなくなったのでしょうか。ある意味りゅうちぇるさんの死と猿之助さの死は似通って見えます。才能があってもなくても、人は自殺します。自分自身と向き合うことは簡単ではないのです。

続く