手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

消えるハンカチーフ 7

消えるハンカチーフ 7

 

 小学6年生の私は、松旭斎清子の元に頻繁に通い、マジックを習い、時に公演について行って、楽屋の手伝いをしたり、又、自分の出演もこなし、頻繁に舞台に立っていました。そして、合間を縫ってあちこちのデパートに行って、マジックの道具を買っていました。

 マジック道具の販売は、簡単に種仕掛けを手に入れることには便利でしたが、商品としてはどれも中途半端でした。それは、マジックとして最も伝えなければならないことが余りにおざなりでした。マジックの価値は道具の作りだけではなく、むしろ、芸能としての細かな約束事や味わい。工夫を如何に価値あるものとして相手に伝えられるか、にあります。

 然し、一様に、マジックの販売をするメーカーはその点がザッハリヒ(即物的)な考え方から抜け出せず、手品を物として売ってしまい、芸能を語っていません。当然の如く、そこから芸能人としてのマジシャンは育ちにくく、道具を買ったファンに行先を提示できていませんでした。それは今もあまり変わってません。

 

 さて、この頃になると、何人かの売り場のお兄さんとも親しくなります。初めて私がマジックと遭遇した大丸の萱場幸雄さんの他に、高島屋の高橋さん。新宿小田急の今川さん。大井町阪急の鈴木さん。出かけて行くたびにお茶をご馳走になって、話をするほど親しくさせていただきました。そこで販売していたお兄さんたちは、みんな10代から20代の人たちでした。

 彼らは、デパートの社員ではなく、メーカーから派遣されて販売をする、派遣店員と言う人たちでした。給料はメーカーから出ているのです。当然の如く、マジックメーカーは、会社としては小さく、給料の条件はデパートの正社員よりは低かったようです。

 それでもみんな明るく、楽しそうでした。彼らは一様にプロマジシャンになりたかったのです。チャンスがあったら、今の売り場をやめて、マジシャンとして活動をして、名前が売れ、稼ぎたい。と考えていたのです。

 かつての引田天功さん、島田晴夫さんがデパートの売り場でマジックを販売していて、そこからプロになって行ったように、そうした先輩を追いかけて、続々売り場に立つ若いマジシャンがいたのです。

 

 萱場さんは私と喫茶店で話をしているときに、私がもう舞台に立って、活動をしていることを知って驚きます。その時の萱場さんの顔は今も忘れられません。「どんなマジックをしているの」、「どう言うところに出演しているの」。と、質問攻めにあいました。

 そこで色々いきさつを話すと、「是非見て見たい」。と言うのです。幸いその月に、伊勢丹デパートにある劇場に出演することになっていたので、見に来て下さいと言いました。

 この時代、寄席演芸の番組がたくさんあり、噺家さんや漫才さんに交じってショウをすることが普通にあったのです。この時、萱場さんは、新宿の小田急デパートで販売していたと思います。私は、日曜日の2時か3時ころの出演でした。そこへ萱場さんが小田急を抜けて、見に来たのです。

 

 その時、私が何をやったかよく覚えていませんが、ロープ切り、20世紀シルク、リング、お終いは風船カードだったと思います。初めは音楽を流してロープ、シルクを演じ、真ん中で喋りながら、リングを演じ、カードを選んでもらい、細かく破いて、破片をお客様に渡し、残りの破片を箱に入れてカードを消し、風船から一か所欠けたカードが復活して出て来てお終いです。

 来ているお客様は伊勢丹デパートのお得意様ばかりです。客席のあちこちから「可愛い。可愛い」。という言葉が聞こえて、しかも、NHKの司会者だったと思いますが。うまく私を持ち上げてくれるために、まるで天才少年マジシャンの如くに扱われて、もう一端(いっぱし)のタレントになっていました。

 それを見た萱場さんは大ショックだったようです。萱場さん自身は、20代のうちにいまの販売から卒業して、プロマジシャンとしてデビューしたいと考えていたのに、一年前に手品を買いに来た子供が、もうタレントとして活動していたのですから衝撃だったようです。

 私のマジックには何ら高度な技法はなく、デパートの売り場にあるものを並べて演じているだけでした。私自身、自分が上手いと思ったことはありません。それどころか「こんなことでいいのだろうか」と内心は不安でした。それでも、お客様と会話をしながら、適度に笑いを取ったりして、なれた舞台をしていました。そのことが萱場さんにとってはショックだったようです。

 終演後、小田急の売り場に行ってみると、早速喫茶店に誘われ、そこで萱場さんが大絶賛してくれました。絶賛の理由は、今まで萱場さんが考えていたような、プロマジシャンとは全然違うマジシャンの姿を私から見たためです。

 私のしているマジックと言うのは、アダチ龍光先生のような、寄席に出演して、お喋りをしながらマジックをする形式のものです。多くの、売り場に立つお兄さんたちが目指していたものは、音楽に乗せて、スライハンドを演じる、島田晴夫さんのようなスタイルだったのです。

 そのため、売り場の間の時間もひたすら稽古をして、スライハンドを磨き、出演のチャンスを狙っていたのです。彼らは一様に自分の技を見せたい人達でした。そんな人たちが東京だけでも20店くらいあるデパートに、マジシャン予備軍としてひしめいていたのです。

 

 萱場さんはこの時、喋りの技術がいかに大切かに気付いたようです。そして、喋りを練習するために、ディーラー仲間10人に声を掛け、マジックの研究会を開くことを思いつきました。

 月に一回、会議室を借りて集まり、そこでマジックを研究したり、練習したりします。そこへ私も、特別会員として入れてもらい、無料でマジックを習うことになりました。彼らの活動は真面目そのものでした。ある時は、「紙玉の復活」と言う、サカートリックを、セリフまで書いて、みんなで練習しました。

 私は、アダチ先生の紙玉を何度も見ていますので、セリフはそらでも言えます。多くのお兄さんたちはセリフをつっかえつっかえ喋っていましたが、お終いに、私に「やってごらん」。と言われたので、書き物を見ずにすらすら演じました。すると、周りの大人は唖然として「この子の方が俺たちより上手い」。と言いました。上手いのではなく、幼い時から見ていただけなのです。

 この勉強会は一年半ほど続いたと思います。基本的なマジックが多かったのですが、私の知らないことも多く、とてもいい勉強会でした。その後、私が18くらいになるまでの間に、この中の何人かの人はプロデビューしましたが、長くは続かず、今は誰一人マジックの世界に残ってはいません。

 萱場さんも、プロデビューしましたが、うまく行かず、売り場に戻ったり、再デビューしたりしましたが、その後は田舎に帰り、失意のうちに短い生涯を終えたと聞きました。多くのディーラーにとっては、プロの道は青春時代の憧れだったのです。

終わり