手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

酔いどれ奇術師放浪記

酔いどれ奇術師放浪記

 

 先週、岐阜で辻井孝明さんと食事をさせて頂いた折、辻井さんから、「酔いどれ奇術師放浪記」が本になったっため、記念に、と言って一冊頂きました。

 酔いどれ奇術師とは、スピリット百瀬さん(故人=令和2年死去。享年72)、の半世紀を当人が口述したものを、辻井さんが小説にまとめたもので、SAMジャパンの機関紙に二年間に渡って連載されました。無論、私もその時に読んでいます。

 百瀬さんは、戦後の名古屋で生まれ育ち、マジック活動を続け、数奇な人生を経験されました。本書には、昭和30年代以降の名古屋のマジック界の事情が詳しく書かれています。

 そこには沢浩さん。石田天海師、マーカテンドーさん、ダイヴァーノン師、ミスターマリックこと松尾昭さん。多くの輝かしいマジシャンの名が連ねられています。

 

 当時大学の歯学部に通っていた沢さんと出会い、マジックを見せられてのめり込みます。それからは情報を求めて、名古屋の松坂屋とか、名鉄デパートのマジック売り場を訪ね歩いて、一日中たむろする日々。そこで知り合った、松尾昭(のちのミスターマリック)さんとはすぐに仲間になり、いつも一緒にマジックの話をしていたそうです。

 やがてマジック熱が高じてプロ宣言をし、キャバレーに出演。そして東京に出てプロ活動。然し、余りのプレッシャーから、マジシャンとしてはパッとせず、そこから酒に嵌り、数々の酒の失敗を繰り返し、名古屋に戻ります。

 デパートのマジック用具の販売と、夜のバーでのクロースアップを見せるバイトで生活を始めます。然し、酒がやめられず、仲間から寸借詐欺をしては酒を飲み、仕事をすっぽかしたりして信用を失って行きます。そして名古屋にもいられなくなり、再度東京へ。

 東京では既に悪い噂が立って、誰も相手にしてくれません。仕事もなく、路上に寝起きするようになります。何とか立ち直ろうと、日雇いとなって働くようになりますが、いつしかマジックとも離れ、目的のない生活を送るようになります。

 そんな中、アルコール中毒を直してくれる教会の存在を知り、そこで一切アルコールを飲まない生活をするうちに回復。

 マジックの思い断ちがたく、SAMジャパンに所属、ディーラーと、マジック指導で生活するようになります。やがて、百瀬さんのこだわりの演技がテレビでも注目され、少し知名度を上げ始めます。

 晩年は生徒も増え、能勢由里江さんなどの弟子に見恵まれ、穏やかな人生を送ります。

 

 それらのことが実名で赤裸々に書かれています。昭和30年代40年代のマジック界がどんなものだったのかを知る意味では貴重な本と言えます。

 令和二年に百瀬さんが亡くなったときに、私は、このブログでも追悼文を書きましたので、ここでは繰り返しません。随分と個性の強い人で、そのことで自分自身を狭い世界に追い込んでしまい、苦労しなくてもいいことに苦労して、結果としてプロとしては大成しなかった人でした。

 然し、それゆえにと言うべきか、独自のアマチュア意識が強く残り、演技の細部にまでこだわりぬく独自のマジックが生まれます。

 その最たるものが、能勢裕里江さんの6枚ハンカチと四つ玉の演技で、基本的な手順であるにもかかわらず。細部まで磨き上げ、一画一画も揺るぐことなくひたすら練習をして手順を作り上げています。

 百瀬さんの指導に素直に従った裕里江さんは、そのピュアな演技で多くの人の心を打ち、あちこちのコンベンションで優勝を果たします。当然百瀬さんも指導者として認められ、百瀬さんから習いたいと言う生徒が集まります。

 ところが、百瀬さんの指導があまりに基礎的なことを何百回も繰り返すために、みんな嫌気がさしてやめてしまいます。百瀬さんの指導はまるでオリンピックスポーツの指導のようなもので、成功に達する道のりがあまりに単調で、長いのです。

 多くの生徒さんはこのストイックな練習に音を上げてしまい、結果生徒が長続きしないのです。

 

 百瀬さんのアルコール依存は、当人の蚤の心臓。つまり小心さから出ています。初対面の人に接すると硬直してしまい、言いたいことの半分も言えなくなります。舞台に出ると、気後れしてしまい、全く演技にならないくらい震えてしまいます。

 あれほどこだわりの演技をする人が、普通に自分自身の演技を舞台で演じることが出来ないのです。

 ある時、演出家の木下隆さんが、百瀬さんのために池袋のライブハウスでリサイタルを企画したことがありました。当初百瀬さんはリサイタル公演を張り切っていたのですが、日が近づくにつれ不安が募って行きます。

 当日、私は百瀬さんを支援しようとライブハウスに向かいました。演技が開始されて百瀬さんが出てきたのですが、明らかに上がっています。すぐにカードマジックを始めればいいのですが、一向に演技が始まりません。前に座っている知り合いをいじって、世間話を始めます。全く私的な話を延々としているのです。もう舞台は始まっているのに、演技が一向に始まらないのです。

 それは百瀬さんのSOSコールでした。あまりに緊張して、自分一人舞台に置かれていることが怖くなったのです。誰か助けが欲しい。そう思って客席を見渡すと、仲間がいます。少し気を落ち着かせようと仲間に話しかけますが、いつまでたっても緊張がほぐれません。そのため延々と私的な話をしているのです。

 「手に取るな、やはり野に置け蓮華草(れんげそう)」。百瀬さんは優れたマジシャンではありますが、残念ながらプロとして舞台に上がる人ではないのです。

 これまで、プレッシャーに勝てないから酒浸りの生活をしてきたのであり、酒をやめたと言っても、それは、自分自身が強くなったわけではないのです。心の弱さは生まれた時からずっと変わっていないのです。そんな人が舞台人に憧れ、プロを目指してきたことが不幸の始まりだったのです。

 上手い人だし、いい人ではあるけども、プロマジシャンには向かない人なのです。実はそんな人がマジック界には多いのです。

 実際舞台に上がってみると、自分自身の思い描くマジックの世界の十分の一も表現できないまま人生を終えて行く。そんな奇術師は実はたくさんいます。但し、その人の才能が、創作に向いたとき、或いは指導に向いたときにその人の才能は輝き出したりします。

 百瀬さんは、そうした意味ではアマチュアだったのでしょう。そして、指導家としてはいい生徒を生みました。辻井さんや裕里江さんを生みました。

 辻井さんは、百瀬さんの遺志を汲んで書籍を書き上げ、今も百瀬さんの功績をたたえています。裕里江さんは、百瀬さんの演技をそっくり今に残しました。そこに果実を残せたことが百瀬さんの幸せだったのでしょう。再読して百瀬さんのことを思うにつけ、これはこれで幸せな人だったんだろうと感じました。

続く