手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

消えるハンカチーフ 6

消えるハンカチーフ 6

 

 全くマジックを知らなかった小学生が、たった一年のうちに、マジック道具を数々買い揃え、その上、ステージに出るようになり、ギャラまでもらい、更には弟子入りまでするようになるとは、自分自身も家族も、周囲の仲間も全く予想も出来なかったことでした。

 今にして思えば、私の人生は常に、上手く行かなくなると誰かしらが現れて、よき方向に引っ張ってくれました。と言って、全くの他力で生きてきたわけではないのですが、人生の際場(きわば)、際場になると、不思議に支援者が現れます。

 「なぜあの時、あの人が現れて助けてくれたのだろう」。という不思議なめぐりあわせをつくづく感じます。

 

 まったくの素人が、何も知らないまま、マジックで稼ぐようになると、明らかな無理が露呈します。先ず手順の作り方がめちゃくちゃです。また、何をどう見せて、人に何を伝えようとしているのか、などと言うことは全く考えていません。ただの素人なのです。

 デパートで買ったマジックはどれも素材で、そのままではショウにはなりません。お粗末の限りです。そんなものでも、子供なりに何とかストーリにして、話を交えてマジックをしていました(私は早くから喋りを入れていたのです)。今考えるとお恥ずかしい内容ですが、その当時はこれで結構受けていたのです。

 それが、テレビディレクターのTさんが私を心配してくれて、松旭斎清子に習うようになると、事態は一変します。遊びでしていたマジックがいきなりプロ修行になりました。清子と言う人は、厳しい人で、教え方も、昭和初年の松旭斎の指導法そのままでした。先ず挨拶から始まり、舞台の袖から舞台の中央に出てくる所作から始めます。

 頭の下げ方が悪い、表情が悪いと何度もやり直しをさせます。ただ出て来て頭を下げるだけのことに一時間も稽古をします。清子は常に正座をして、着物をきちんと着こなしています。この人は常に着物姿です。そして座ったまま、ただ言葉だけで「はい、右手をでロープを持って、素早くハンカチを取って」。と指図します。

 つまり、型で教えます。型は決して崩してはいけないもので、違うことをすれば何度もやり直しをさせられます。演技はすべて手順物で、ロープ切りは、数手のロープ切りの技をつなげて、3分程度の演技になっています。寸分たがわず、きっちり覚えなくてはいけません。

 切ってつなげた後、ポーズを取る時も、ほんの1~2秒、止まって笑顔を見せたぐらいでは怒ります。「そんなすぐに次の手順に移ったら、少しもお客様は納得しないよ」。と、最低3秒止まることを要求します。笑う時間まで決まっています。

 有り難いことは、習ったことをそっくりやるだけで、それはすぐにショウに生かせます。ハンカチでも、リングでもそれは同じです。但し、勝手に習ったものを舞台にかけてはいけません。何か月も練習した上で、師匠の了解が取れたときに、初めて舞台で演じられます。徹底した「型教え」です。日本舞踊や、歌舞伎と同じです。

 型教えと言うものは、良い面と悪い面があります。この方法で覚えてしまうと、創造性は生まれにくくなります。師匠も、「勝手に手順を変えてはいけない」。と言います。そのため、古い流派の人たちは、みんな判で押したように同じことをします。

 「これは天海先生(石田天海)が教えてくれた手順だから」。と言って、昭和5年に天海師が指導したロープの演技をそのまま教えてくれます。内容は昭和5年から少しも変わっていません。

 かつてはそれがよい芸とされていたのです。今はそうした教え方を批判する人は多いようです。然し、私は、初心者は、こうして習うことは絶対に必要だと思います。アレンジだの、オリジナルだのを語るのは、ずっと先の話で、何も知らない素人や初心者がいきなり個性や、オリジナル云々を言うのは間違いです。先ずマジックのルールや成り立ちを学び、原則が分かった上で自分の考えを入れて行くことが大切なのです。

 

 方や、デパートの手品売り場のマジックは、何十個買っても常に不満足なままです。たぶん天洋で売っていたものだと思いますが、「花になる煙草」、というマジックが有りました。煙草を左手に握ると、毛花に変わると言うマジックでした。煙草が筒になっていて、中に毛花が入っていました。タネは初めて見たときに、「あれはタバコの中に毛花が入っているのだ」、とすぐにわかりました。しかし問題は、花になった後、煙草はどこへ隠してしまうのかが分かりません。解説書を読むと、「観客が毛花を見て驚いている隙に、速やかにポケットに煙草を隠す」。とあります。速やかに、どうやって、ポケットの中へ、煙草を隠すのか、が全くわかりません。

 握り拳の中から毛花を出せば、観客は、左手の握り拳にまだ煙草が残っていると信じています。幾ら花を派手に動かしても、左手をじっと見ています。この状態でどうやって観客に悟られないように、煙草を隠すのかが解説されていません。

 然し、よく考えてみると、売り場のお兄さんは、私の目の前で、煙草を処理して見せたのです。その謎こそがこのマジックの価値です。そこで、もう一度売り場に行き、花になる煙草を見せてもらいました。すると謎が解けました。左手の煙草は、私とお兄さんの間にある、ガラスケースの影で、手を緩めて落としていたのです。

 私は愕然としました。つまり、煙草が花になるマジックを演じるためには、商品を陳列しているガラスケースごと買わなければできなかったのです。私は、子供心に、「何と言う販売をしているんだ」。と憤りました。日常品を使って簡単に演じられるマジックではないのです。

 この当時の解説書と言うものは、多くはわら半紙にガリ版刷りで、ごく簡単に扱い方とタネが書かれているものばかりで、それでマジックが出来るかと言えばまず不可能でした。お祭りで売っている手品道具と似たり寄ったりで、買った人は、タネしか書いていない紙を見て、「何だ馬鹿馬鹿しい」。と言って、実際演じもせずに、屑籠に手品を捨ててしまったのです。デパートの商品も夜店の手品もほとんど変わらなかったのです。

 たとえ。ガラスケースの影で消す行為が最も効果的だったとしても、解説書には、次善の策を解説しなければなりません。分からぬように隠せ、と言われても素人は理解のしようがなく、ちゃんと,どうしたら処理できるのかを伝えなければ責任ある商品にはなり得ないのです。

 そもそも、ガラスケースの裏で処理すると言う行為は、クロースアップの考え方です。ステージマジックにクロースアップの処理法を持ち込むのはアンフェアな行為です。なぜなら、ステージにガラスケースはないのですから。

 先ず第一に小学生にタバコの手品を売るのは間違いです。そんな販売をして、手品の商売は、ファンをどこへ連れて行こうとしているのか。子供心にもマジック道具の販売は疑問だらけでした。

続く