手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

消えるハンカチーフ 5

消えるハンカチーフ 5

 

 親父が勝手に売り込んでくれたお陰で、出演依頼はたくさん来ました。親父はそのことを只喜んでいますが、母親は大反対です。家の中で芸人が二人生活することになるわけですから、将来を思うとどうなるのかが不安です。

 そのため、学校を休んでまで舞台に出ることはしない、と家族でルールを決めました。母親は、とにかく私を大学までは出したかったのです。そのため、何とか、マジックを諦めさせようと、その後もいろいろ策略を巡らしました。私も親父も、学校のことなどはどうでもよかったのです。ただ、母親の意見は尊重しなければなりません。舞台出演は、平日なら夜か、日曜日、或いは春休みや夏休みに限られます。

 平日は、一度学校から帰って、外出着に着替えて、マジックの道具と衣装を持って、ホテルの宴会場やお座敷に行ってショウをする、といった生活が続きます。仕事には誰もついてきてくれません。仕事先に出演依頼をした事務所のマネージャーはいます。

 然し、別に何をしてくれるわけではなく、帰り際に出演料をくれるのが、マネージャーの仕事でした。出演料は大概は2000円くらいでした。大学生のアルバイトが、一日1000~1200円くらいの時でした。当時は大概の出演料は現金で支払ってくれましたから、帰りに、オムライスを食べたり、とんかつを食べて帰るなど、なんでもないことでした。高級なとんかつでも200円くらいの時代でしたから、贅沢し放題でした。

 それでも子供ですから、酒を飲んだり、ギャンブルをしたりするわけでもなく、収入は貯金していましたが、大概はマジックの道具に使うか、年に一回くらいタキシードやジャケットを仕立てていました。まだ体が貧弱でしたから、既製品が着られなかったのです。然し、子供のくせに、襟袖首がピシッとあったタキシードなどを着ていますので、ちょっと見た目はお金持ちのおぼっちゃま然としていました。

 小学校6年生になると、体つきが少しずつ大きくなって行きました。但し、その分栄養を背丈に取られますので、今まで以上に痩せてしまいました。私は自分が痩せていることが恥ずかしくてたまりません。背丈と体格が余りにアンバランスになって来たために、人前に出ることそのものが嫌になりました。

 ところが、その細身が可愛いと言うお客様が大勢いたのです。顔つきは、当時、鳩出しで売り出していた、引田天功さんに似ていると噂され(実際はさほどに似てはいません。マジック界で天功さん以外知名度のある人がいなかったので、何かにつけて天功さんと比較されたのです)、とにかく、世間は面白がって使ってくれました。

 ただこうした活動は、今考えても、私の成長を妨げるものだったと思います。何が問題かというなら、簡単に金が入って、それで簡単に道具が買えてしまうことです。 

 私は、次々と道具を買って、解説書を読んで、練習するのですが、それだけでいい演技ができるものではありません。だらだらとまとまりのないことをして見せて、それで愛嬌を振りまいて受けて、おしまいです。そんなことを続けていて、上手く生きて行けるものではありません。

 また、楽屋の中でも、先輩たちと一緒にいて、上手く付き合って行けるように、人一倍気を遣うことを覚えます。私は無意識に、常に人に気遣っていたのです。私の母親の知人に占い師がいて、その人が、「あの子は人に気を使い過ぎる。あれでは長生きできないわよ」。と言ったそうです。無論気遣いは大切ですが、そうして世慣れて生きて行くうちに、本来の子供らしさが消えて行って、外面のいい子供になって行くのです。

 多分、摺れた性格になって行ったのでしょう。欠点のない子供ではあっても、全てうそで固めたような表情をしています。自分自身ではそれが大人の生き方だと勘違いをします。こうした生き方は、子供のタレントが必ず経験することです。自分が何者なのかも知らないうちに、仕事ばかり来るのですから、日々が勘違いの連続なのです。

 

 親父の友人で、NETテレビ(現在のテレビ朝日)のディレクターをしていた、Tさんが、折に触れて親切にいろいろアドバイスをしてくれました。楽屋に入って挨拶をするときの挨拶の仕方とか、敬語の使い方。出番待ちの時の姿勢、或いは出てくるときの表情。ありとあらゆることを教えてくれました。

 それはTさんに限ったことではなくて、噺家さんであっても漫才さんであっても、昔の人は、ことあるごとにいろいろ親切にアドバイスをしてくれました。この時代は職業によってこういうふうに生きるんだ。という、独特の所作がまだ残っていたのです。それらを一つずつ習って行くことは、随分と役に立ちました。毎日プロと一緒に仕事をして、揉まれているうちに、いろいろなことをこなせるようになって行くのです。

 ある日、T  さんは、親父に、「この子をこのまま育てていたら、何もならずに消えて行くよ。しっかり誰かに付いてマジックを習い直さなければいつまで経っても素人芸だよ」。と言いました。日常の礼儀作法などはTさんでも教えられますが、マジックの内容となると外部の人では何も言えません。Tさんの真剣なアドバイスを聞いて、親父は、初めてこの先私をどう育てるか、について悩みました。親父には何も考えはなかったのです。ただ一緒に舞台に立てるような仲間が欲しかっただけなのです。

 

 そこで、日ごろの麻雀仲間で、女流のマジシャン、松旭斎清子に預けることになります。なぜ清子に預けることにしたのか、全く謎です。私の将来を考えたなら、当時売り出し中の、渚晴彦か、北見マキに預けるのが妥当ではなかったかと思います。

 実際、タッチの差で、北見さんから親父に、「自分のところで息子さんを修行させてみる気持ちはないか」。と打診があったそうです。それに対して親父は、「清子さんに頼んだから」、とそっけなく断ったそうです。運命というのは分かりません。もし北見マキの弟子になっていたなら、今頃は北見新太郎になっていたでしょう。

 それが良かったかどうかはわかりません。ただ、私は、清子に付くことでこの先、手妻と遭遇することになります。

続く