手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

消えるハンカチーフ 4

消えるハンカチーフ 4

 

 当初3回で終わらせる予定だったこのブログが、週をまたいで4回目になってしまいました。続けることになった理由は、異常なほど今回の読者が多いことです。私自身のマジックを始めた時の心の様子をなるべく記憶を辿って、素直に書いてみようと思ったことが始まりだったのです。

 そのことが案外多くの方々から共感を呼んだようです。マジック愛好家は勿論、そのほか、いろいろなジャンルの方々が読んでくださっています。それが面白いと言うのなら、もっともっと初心者の時代を思い出して、詳しく書いてみます。

 

 年が明けて、もう小学5年生もあとわずかになるころ、私は、マジックの道具が靴のあき箱に一杯になるくらい持っていました。プラモデル集めはもうやめていました。そして、大丸デパートで知り合ったAさんを真似て、私もマジックの道具を入れるバックを買い、それを常に持ち歩くことで、いっぱしのマジシャン気取りになりました。

 それを見ていた親父は、自分の出演している舞台に私をよく連れて行きました。その頃親父は、漫才をやっていて、そこそこ売れていました。漫才の話の中で、私のことをネタにして、「うちの子供が最近マジックを始めてね。これが結構筋がいいんだよ」。などと言って、お客様にアピールすると、当時のお客様は素直で、「それならちょっとやらせてみてよ」。とマジックを見たがります。

 そこで舞台袖にいる私を呼んで、「これが息子です」。と言うと、当時の私はとても体が細く、小さかったのですが、愛嬌のある顔をしていましたので、ニコッと笑っただけでも拍手喝さいでした。

 そして、ポケットに入れた、お粗末なマジックをすると、信じられないくらいの拍手が来ました。当時子供でマジックをするものなどいないため、消えるハンカチを演じただけで、前に座っていたお婆さんが、いきなり1000円のご祝儀をくれました。一か月300円でやりくりしていた身としてはびっくりです。

 大人の社会に交わると、500円、1000円と言うお金はごく普通にいただけます。柳亭痴楽師匠は、当時人気者で、私の親父の兄貴分になる人でしたが、親父はよく痴楽師匠のラジオ台本を書いていました。その関係か、親父が私を紹介すると、痴楽師匠は、無造作に懐の財布から500円を出して、「君のお父さんにはいつもお世話になっていますからね」。と言って私にくれました。

 突然の大金がいただけるものですから、ただうろうろするばかりでした。つまり、上手い下手の評価とは全く関係ないのに、行く先々で周囲の人は、私に小遣いをくれるのです。どう考えても、消えるハンカチーフや、三本ロープ、チャイニーズステッキは大した内容ではありません。然し、出て来るだけでお客様は喜んでくれて、中には涙ぐんで鼻紙に包んだ百円札をくれるお婆さんもいたのです。

 なぜ私にお金をくれるのかが分かりません。それなのに、出るたびあちこちからお金を頂きます。親父は、それに対してマージンを取ることなく、全てくれました。当然、私はマジックの売り場に行く回数が増えました。同時に、楽屋で親父の仲間の奇術師から色々なことを習いました。

 たちまちいろいろな知識が身についてきました。初めは自分が何者かも知らずに、ただぎこちなくマジックをしていたのですが、ちょっと反応が少ないな、と思った時に、以前、天遊さんがやったように、客席に向かって、ニコッと笑って見せると、信じられないような反応が返って来ました。

 「ただマジックをしていても駄目なんだ、お客さんの共感を得るような、笑顔が必要なんだ」。と気付きます。それが分かると、一つの演技が済むたびに、笑顔を見せるようになります。すると、観客はものすごい拍手をしてくれるのです。

 私は、何一つマジックのことも芸能のこともわからずに舞台に立っていましたが、何となく観客の求めているものはマジックの結果ではなく、私の素直な心の動きなのだ、と気付くようになります。無論、笑顔を作るなどと言うものが自然な心の表出であるわけがないのです。作為でしていることですから。

 然し、やせて小さな子供がマジックを演じながら、笑顔を向けると、観客はすべてを許してしまうのでしょう。子役の強みです、未熟であるがゆえに、守ってやろうと言う親心が作用するのでしょう。

 と言うわけで、私は初めは親父の舞台の合間に出演していましたが、やがて、あちこちの芸能プロダクションから、単独で出演依頼が来るようになりました。そうなると、普段着の格好で舞台に上がるわけには行きません。ズボンとジャケット、蝶ネクタイを買い、それなりの格好をするようになります。

 ジャケットなどは、なかなか子供に合うような既製品がなく、あってもとても高価でした。ある時、親父にくっついて、相撲の井筒部屋の千秋楽に行ったときに、お相撲さんが大部屋で食事をしている真ん中でマジックを見せたときに、中央に座っていた、黒い着物を着た小さなお婆さんが私を手招きしました。その人は子供が見ても、ただものではない人で、日本髪を結って、背筋を伸ばして、床の間の前に座っていました。

 呼ばれるままに、前まで行って、座って挨拶をすると、懐から小さな祝儀袋を出して、それをくれました。私はにっこり笑って挨拶をして、楽屋に戻りました。後で聞いたら、そのお婆さんは井筒部屋の後援会の会長で、八幡製鉄(今の新日鉄)の社長夫人だそうです。

 私は祝儀袋の中身を見ることなく、ポケットに入れたままでした。帰り道、タクシーの中で、親父が、「お前さっき祝儀をもらっただろ」。と言いますので、袋を見せると、「幾ら入っていると思う?」。と聞かれ、「500円か千円じゃないの」。と言いながら、中を見たら、5000円入っていました。「お前、俺のギャラより多いぞ」。親父もびっくりしていました。

 5000円は今でいうなら5万円です。子供では生涯手にすることのできないお金です。私はすぐにジャケットを買いに行きました。極めて短期間に、シャツや、ネクタイジャケットまで揃い、たちまち、ちょっとしたお洒落ボーイになっていました。

 しばらくして、大丸デパートに行き、売り場のお兄さんに合いました。すると、お兄さんは、「ちょっと見ないうちに随分大人になったねぇ」。と言いました。

 その後、アマチュアのAさんにも数か月ぶりに会いましたが、会ってすぐに感じたことは、「あぁ、この人はアマチュアなんだな」。と思いました。それまで見ていた時は、何でも知っていて、とても上手い人だと思っていました。

 どうしたらこの人のようになれるのか、と、憧れの目で見ていましたが、この数か月、私が何十回か舞台を踏んだだけなのに、Aさんを見ると、一つも観客の気持ちを考えることなく、ひたすら自分のしたいマジックを演じているだけの人なんだと分かりました。

 無論、そのことはAさんには言いません。ただ、はっきり自分とはレベルの違う人だったんだと知ったのです。

続く