手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ちちんぷいぷい

ちちんぷいぷい

 

 日本には呪い(まじない)言葉があります。お経だの、祝詞(のりと)だのと言った、一見意味不明な言葉を耳で聞き、人に伝えるものとして、とりあえず考え出したものがそれで、「ちちんぷいぷい」であるとか、「ちんぷんかんぷん(珍紛漢紛)」などがそれでしょう。

 実際にはそう言っていないのに、そう聞こえたと言う感覚で作った言葉でしょう。山伏が唱える呪文などを聞いていて、真似ているうちにできたのだろうと思います。これを子供がけがをした時などに母親が、呪文として唱えると、痛みが多少和らぐことで、全く役に立たないものでもなかったと思います。

 呪い言葉は世界中にあります。英語圏での「ホーカスポーカス」。アラビア語圏の「アブラカダブラ」がそれで、実際に呪い師や、マジシャンが使ったのかどうかは知りません。それでも、今に残って現役の言葉として生きているのは、何かの役に立つから残っているのでしょう。

 さて、ちちんぷいぷいは、今や日本でも消えつつある言葉です。確かに昔は私の母親も使ったように思います。もう私の年齢で、私自身が二度と使うことはないだろう。と思っていたものが、昨日、大阪で活用することになりました。

 

 昨日(17日)。私は大阪で手妻の指導をしました。実は、大阪指導はコロナで一年ほど休校をしまして、希望者のみの、個人指導はしておりましたが、教室としては休んでおりました。一時は10人程度の生徒さんがいて、10年以上も続いていた指導ですので、無くなってしまうのは残念です。

 私にすれば大阪の指導が足場になって、関西の公演活動を少しづつ広げて行くことが目的でした。京都のお座敷であるとか、実際、会社のパーティーなどを少しずつ開拓したり、マジックセッションを主催して、マジック愛好家と知り合い、活動の足場として生かしてきました。

 それには、指導をすることで、大阪に一泊して、翌日には大阪のマジックの理解者を訪ね歩き、人との付き合いを広げたいがために続けてきたことです。

 地味な活動ではありますが、こうして支援者を作って行き、年間何日かの舞台出演や、座敷の出演、そしてマジックセッションの舞台を公演できるまでになりました。それもこれもマジックの指導があって、長く続けてきたことが幸いしたのです。

 

 通常指導は、谷町九丁目にある、スタジオOMと言う、稽古場を借りて行っていました。ところがその場所が、長い休校のためか、空きがなくて困っていると、キタノ大地さんが、「それなら、私がやっているマジックのライブハウスでやりませんか」。と言って、紹介してくれたのが、「チチンプイプイ」と言う名前のライブハウスでした。

 ここは、キタノ大地さんと魔ほうの愛華さんが共同で借りているスペースで、毎月一回のマジック公演のほか、キタノサンニ日ごろは稽古場として利用しているそうです。

 当日朝、キタノさんに新大阪駅まで迎えに来てもらい、車で向かったのは、南海電車我孫子前と言う、駅から歩いて一分と言う場所で、駅前通りに面している元商店だった建物です。建物は古く、奇妙なL字型をした建物です。向かいにはお地蔵様が祭ってあり、昔だったら田んぼのあぜ道のような場所です。

 それでも南海電車の安孫子前から1分という立地は人寄せには宜しく、ここでもう一年以上前からマジックショウを催しているそうです。ここは魔ほうの愛華さんとキタノ大地さんの、理想を現実化させた空間なのです。すばらしいことです。建物が古かろうと、L字に折れ曲がっていようと、欠点などは関係ないのです。ここがあってここでマジックが出来ることがお二人にとって生きがいなのです。マジシャンはあまたあれど、劇場持ちのマジシャンは何人もいません。これは高く評価しなければいけません。

 

 思えば私も28歳の時に、板橋の常盤台にあった環7通りに面した商店を借りて、一階を道具の倉庫、二階を事務所にして、東京イリュージョンを設立しました。この時は初めて事務所を自前で起こしたことが嬉しくて、家族を呼んだり友人を呼んだりして得意になっていました。ところが、私の兄を呼んだときには、いきなり「きったない家だなぁ」。とあきれられました。「何だ、こんなところでマジックをしているのかぁ。これじゃぁ、大した稼ぎもないだろう」。などと散々に言われました。

 兄は三菱商事系列の会社で支社長までしていました。そんな立場の人から見たなら、会社に受付嬢もおらず、エレベーターもなく、木造モルタルの貧弱な商店の空きだなを借りて事務所にしているなどと言うのは、立派でも何でもなく。建物と言うよりもごみに見えたことでしょう。

 私が得意満面で人を招待したこととは全く逆の意味で見ていたのです。人の夢と言うものは見る人によるとまったく違うものに見えます。40年会社に勤めて退職金でようやく買った建売住宅を、「これはすごい」。と言う人もあれば、「生涯働いてこの程度の家しか建てられないのか」。と言う人もあるでしょう。

 でも何と言われても、それを手に入れた当人は幸せなのです。こうありたい、こう成りたいと言う夢が形になったのですから。どんな小さなことでも、形にして人に見せられることは大した成果なのです。

 

 さてそこで数名の受講者を集めて指導をしていると、表の通りをミスターサコーさんが通りがかりました。あの、炎とカードマニュピレーションの名人、サコーさんが細い商店街を歩いているのです。氏はこの近所に暮らしていたのです。思いがけなくもお会いして、ライブハウスに招いて一緒に話をしました。

 まさか安孫子の商店街で、サコーさんと、チチンプイプイで話をすることになろうとは、サコーさんももう75歳、私も68歳、ともに傍から見たなら爺さんです。爺さん二人が安孫子でお茶を飲む姿は珍しい風景ではありません。普通の世界の話です。「あぁ、そうした世界に私も溶け込んだのだなぁ」。しみじみ諦観しました。

 

 さて、ここのライブハウスは、15人も入ればいっぱいになります。元より公演することで利益など出ません。若いマジシャンの登竜門の場として、毎月ライブをしているのです。

 私は来月京都のホテルで公演があります。アシスタントとして、藤山大成を連れて行きます。その大成を来月7日にチチンプイプイに出してはどうかとキタノさんから誘われました。前日にチチンプイプイで自分の公演をして、大阪で一泊をして、翌日に私の手伝いで京都に行く。無駄のない活動です。大成のためにも、大阪で支援者を作るのは大切です。ぜひ出演したらいいと思います。

 と言うわけで、大成の出演チャンスまで作っていただき、私の指導場所まで提供してくださり、キタノさんと愛華さんの夢の劇場に幸あらんことを願っています。

続く