手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

司会者とは何をする人?

司会者とは何をする人?

 

 昨日(3月3日)は、朝5時30分に起きて、いつもの通りブログを書きました。半分ほど書いて、そして朝食。再度デスクに戻ってお礼のメールや電話など残務整理をして、更に、ブログの残り半分を書こうと思っているときに、図らずも居眠りをしてしまいました。10時ころに目が覚め、ブログを書き上げました。少し疲れているのです。どうしてもその日にやらなければならない用事があるのですが、体が動かずはかどりません。

 思いのほか、昨日までの公演で、舞台と司会を一緒にしたことが疲労の原因になったようです。何とか面白いショウにしようと考えてやったのですが、私の体力を超えた仕事量でした。

 昼食後、リビングのリクライニングシートで休んでいるうちに、又も眠ってしまい、目が覚めると夕方になってしまいました。「しまった、又寝てしまった」。すると、石橋医院から、電話が来ました。「あっ、そうだ、今日は月に一回の糖尿病の検診日だったんだ」。病院をすっぽかしていました。失敗ばかりしています。

 本当は、朝9時半に病院に行って、血液を採り、糖尿病を調べなければならなかったのです。よりによってショウの翌日に予約をしたのが間違いでした。数年前までは、そんな日程を立てても何にも問題がなかったのに、今では出来なくなりました。

「今の年齢にふさわしい活動をして行かなければだめだなぁ」。としみじみ思いました。

 

 司会について前々からいろいろ思うことがありました。マジックショウの中で司会は余りにおざなりに扱われています。司会者自身も、自分が何をする役なのかを知らない人が出て来て、とりあえず喋れるからという理由で、くだらないことを言って時間をつないでいる人が多いように思います。

 結果としてそれではショウ全体の価値が下がってしまい、せっかくのマジックショウが程度の低いものに見えてしまいます。これは日本だけのことではありません。アメリカやヨーロッパのコンベンションを見てもつくづく感じます。正直言ってへたですし、司会者が司会者としての仕事をしていません。単なる時間つなぎです。

 司会者とは何をするものなのか、について3つのことをお話ししましょう。

 

1、方向を示す。

 司会者と言うのは、その公演全体を把握していなければいけません。公演することによって、マジックそのものをどこへ持って行こうとしているのか、その方向を示せなければいけないのです。これが最大の目的です。ただ出て来て、舞台に撒いたカードをかたずけている間の時間つなぎをするのが司会者ではないのです。

 個々のマジシャンはてんでに好きな演技をしています。その中で唯一、司会者は高いマストに上って、船の行く先を見ながら乗組員に指示出しが出来なければいけません。最終的に司会者のいい悪いでショウが何倍もの価値を生むのです。

 大きな費用をかけて催すマジックショウが、この先どう言う方向に進みたいのかをまず知っておかなければなりません。その上で、このショウがその通りに進んでいるのかどうか、細かく確認をしなければいけません。そして最終的に、お客様に主催者の意思が伝わったかどうか、或いは予想以上に内容のいいショウになったのかどうか。それを確かめた上で、出演者に活動の成果を伝えなければいけません。先々が行き届いているショウは、出演者もやっていて充実しますし、気持ちがいいものです。

 

2、マジシャンを支える

 また、間に出て来て、マジシャンの紹介をする場合も、ただ褒め言葉を並べて出演者の提灯持ちをすればいいと言うものではありません。大切なことは出演者の将来です。そのマジシャンが将来どうなりたいと考えているのか。実際今やっている道が正しいかどうか。さりげなく、キーワード一つ二つで方向を示し、出演者を認めて、良い方向に持って行ってあげたいのです。その思いをわずかなコメントに込めて、さりげなく讃えてあげたいのです。そこが司会者の腕の見せ所です。

 基本的に司会者は出演者全てを認めていなければいけません。愛情をもって接していなければいけません。司会者がどこまでマジシャンを愛しているか、どこまでマジックの世界を愛しているかがショウの価値を作り上げて行くのです。

 

3、面白いこと

 1,2、で申し上げたこと、それら全ての仕事が出来たとしても、司会者は、結果として面白くなければだめです。人の話は面白くなければ観客の記憶に残りません。人が興味を持って先を聞きたがるのは、言ってしまえば、話の内容が、常に予想を覆して行くからです。

 予測のできない話こそが人の興味をつなげるのです。と言って、とっぴな話を作り出しても、それが観客の共鳴につながるものではありません。何でもない話をしていながら、薄皮一枚ピントがずれていると面白いのです。

 近松門左衛門が、芸能の極意は虚実の皮膜にある。と言っているのはこのことです。近松いわく、「近頃はやたらに実(じつ=リアル)を求めて、それを巧いの拙いのと言う人があるが、それは間違いだ。芸能と言うのは、薄皮一枚かぶせた嘘にこそ本質がある」。と言ったのは元禄時代のこと。元禄時代からすでに、物事を理屈でしか見ようとしない変な客が存在していたのです。彼らは、芝居の嘘ごとを認める心の幅を持ち合わせていなかったのです。今も全くそのことは変わっていません。

 つまり当たり前のことを当たり前に話しても面白くないのです。僅かに虚飾を加えるから面白く、わずかに話が外れるから話が発展するのです。それを間違いだと言ったなら、芸能は成り立たないのです。薄皮一枚の虚構こそ芸能なのです。

 そうしてみると話の内容を考えることは簡単ではありません。短時間に観客の予想を裏切って、意外な話に展開させなければならないのです。

 そんなことを毎日考えていると、随分と疲れます。然し、私がして見せなければ、マジックの世界はいつまでも時間つなぎの司会しかしません。何とかそれは間違いだと言いたくて、二日間司会をしてみました。その結果が疲れてしまったのです。

そこで今日(4日)は、少し体を休めます。こんな日があってもいいのでしょう。

 芸能は虚実の皮膜にあり。疲労は虚弱の末にあり。

続く