手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

神仙戯術 2

神仙戯術 2

 

 神仙戯術がヒットして、数年後には続編まで出て、更には、一作目二作目の合本まで出ました。今、この本を見て、なぜこれがそれほど売れたのかはなかなか理解できません。然し、一般に販売してはいけない専門書をあえて出したところに話題が生まれ、相当数の知的好奇心を持った人々に読まれたのでしょう。

 前回、日本の識字率が欧米や中国と比べて高かったと書きましたが、例えば、中国やアジアの漢字文化圏(朝鮮、ベトナム、)と比べて日本の識字率が高かったのは、ひらがなカタカナのお陰であることは間違いありません。ひらがなカタカナと言う表音文字を考えたお陰で多くの日本人は、初頭の学問が容易になったのです。

 そうなら、欧州などはアルファベットなのだから、みんな文字を読めそうなものですが、その時代の為政者と言うのは、庶民に文字を読ませないような策をいろいろ考えます。欧州の場合は専門書や、法律書ラテン語を使います。古語に精通していないと読めないわけです。中国も同じで、漢字はわざと画数を多くして、一般庶民には読めないようにしていた節があります。漢字が読めるのは役人か知識人だけだと思わせたかったのです。

 ところが日本はそれに反して、文字はどんどん平易になって行きます。俗に昔から読み、書き、そろばん、と言いますが、最低限それだけ覚えれば生活して行くことには困りません。戦国時代以降、社会が安定するようになると、日本中の武士が、余ってしまい、生活して行けなくなります。特に、家を取り潰された武士は、江戸、大坂、或いは地方都市に集まり、寺子屋(塾)などを開いて、読み書きそろばんを農家にも、商家の奉公人にも、教えるようになります。こうしたことが日本人の識字率を高めました。

 日本中の武士は、戦士として通用しなくなります。そこで、多くの武士は役人となり、領地内で殖産活動に従事します。

 大名も、米や麦の生産だけでは収入が足らず、地元の特産品を作って、江戸、大阪に販売するようになります。織物、蝋燭、紙、陶器、塗り物、などを作り、武士は商品管理をし、流通を手伝います。織物などは商人と綿密な打ち合わせをして、流行を先取りして新柄を織らせたりします。まさにやっていることは総合商社なのです。この中でも紙は日本中で作りやすかったのか、大量に出回るようになります。江戸時代に入ると、紙の値段が一気に下がります。

 幕末期に日本にやってきたヨーロッパ人が、日本の街中を散歩していると、日本人が紙で鼻をかんでいるのを見つけます。鼻をかんだ後、紙を道に捨てて行ったのですが、当時ヨーロッパでは鼻をかむときはハンカチで拭いていたのです。勿論ハンカチは捨てません。丸めてポケットに入れておいて、乾いたらまた鼻をかんでいたのです。ところが日本人は、それを捨てていました。近付いてよく見たら、それは間違いなく紙だったのです。ヨーロッパでは紙は高級品でした。トイレットペーパーと言うようなものはなく、尻は備え付けのぼろきれや、ハンカチで拭いて、後で洗っていたのです。欧米人は、鼻をかんで紙を捨てる日本人を見て、日本の豊かさを知ったのです。

 とにかく江戸時代は早くから、紙が普及するようになって、そこから出版文化が発展します。然し、そうは言っても、なぜマジックのような、コアな専門書を発行したのかが謎です。実は、それには数学の専門書の大ヒットの功績が大きかったのです。

 

 1627(寛永4)年、和算をまとめた塵劫記(じんこうき)が刊行されます。著者は吉田光由、これは日本史に残るほどの成功になりました。刊行してすぐに日本中に和算ブームが起きます。俵積算(ピラミッド状に積み上げた俵の個数を、数式で計算する方法)、円の円周の長さを出す方法とか、面積など、数学の謎を次々と数式で解き明かしたのです。塵劫記は江戸期はおろか、明治に至ってもヒットを続け、もはや算数の教科書のような扱いで人々に読み続けられました。

 この本の刊行により、多くの日本人の知的好奇心が燃え上がり、争うように塵劫記を求めました。版元は、「知識は金になる」と言うことを学びます。それからありとあらゆる専門書が出るようになります。神仙戯術はそうした知的好奇心を満たす専門書の一つとして生まれたのです。

 塵劫記もそうですが、神仙戯術も、これを読んでプロになろうと言う人はそう多くはなかったでしょう。専門書ではあっても、プロ養成の書ではありません。どちらかと言うと謎解きパズルのような感覚で読んだ人が多かったと思います。つまり、江戸時代に入ると、数学もマジックも知識の一つ、遊びの一つになって行ったのです。

 神仙戯術の作者が誰かはわかりませんが、プロマジシャンでないことは明らかです。江戸期に、自らの作品を本にして出すマジシャンは出て来ません。プロなら頑なに秘密を守っていたはずです。つまり、この時代にマジックを趣味とする人たちが育って行き、彼らが仲間を作るために書いたのです。それにしても、かなり知識があって、漢文を創作できるような人で、マジックの種に興味がある人。そうなると、アマチュアマジシャンの中でもかなり限られた人と言えます。

 

 始めは関係者の批判を恐れておっかなびっくり出していた伝授本も、世間の支持者に推されて次々に出版されるようになります。この本を誰が買ったのか、と考えると、一部の高所得者以外、買って読んだ人はそう多くはなかったろうと思います。

 多くは、貸本屋が買い求め、人に貸して商売をしたのでしょう。貸本屋の商売相手は、大名屋敷とか、大きな商店とか、人のたくさんいる所がお得意様で、定期的に新刊書を持って行くと、みんな喜んで借りてくれたのです。床屋などは、自らが貸本屋となって、常に数十冊の本を仕入れては持ち歩き、髪をまとめている間、お客様に本を読ませ、お客様がもっと読みたいと言うと、一日幾らと、貸し料を取っていました。こうして貸本でお客様とつながっている間中は、三日、四日に一回、髪結いで呼んでもらえますので、手堅いお客様になってもらえるわけです。

 滝沢馬琴南総里見八犬伝などは、爆発的なブームで、長編小説として連続的に刊行されました。余りのブームで刷っても刷っても需要が追い付かず、先を読みたい読者が押し掛けて、貸本屋もヒートアップします。髪結い床も、もし八犬伝の新刊が手に入ったなら、その噂だけで、朝から晩まで贔屓客から、ひっきりなしの髪結い依頼が来たそうです。こんなにも書籍で大騒ぎをする国がアジアにあったと言うのが驚きです。

 この先、多賀谷環中仙や、平瀬補世などの伝授本について書きたいと思いますが、とりあえず、今回はここまでで話を止めます。

続く