手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

澤瀉屋(おもだかや)内紛

澤瀉屋内紛

 

 このところ、ウクライナの話や、猿之助さんの自殺の話、ジャニーズの性被害の話などなど、いろいろ話題があって、マジックの考えについても書けず、大谷選手のことも書けず、食事のレポートもできず、話すことが多くてブログもまとまりにくくなりました。

 とにかく今日は澤瀉屋(おもだかや=市川猿之助一門)について書きます。

 澤瀉屋市川猿之助一門を語る際には、三代目猿之助の功績を抜きにしては語れません。今は車椅子に乗って、不自由な生活をしていますが、この人は文字通り猛優で、舞踊をやってもきびきびと素晴らしい運動神経で動き、早変わりも、早変わりと気付かないうちに役を入れ替わるなど、独自の工夫が加味されて、頭のいい人ですから、台本なども手掛け、八面六臂の活躍を見せ、芝居の面白さを観客に教えてくれた功績は大きかったのです。

 当時(昭和40年代)の歌舞伎座は、歌舞伎公演をしていたのは一年の内に8か月ほどで、他の月は、三波春夫公演であったり、大川橋蔵公演であったり、テレビ俳優や、歌手の芝居を打っていたのです。なぜかと言えば、歌舞伎では人が呼べなかったからです。かつての名優、尾上松緑中村勘三郎(17代目)、中村歌右衛門松本幸四郎(8代目、今の幸四郎は10代目)、こうした人たちがみんな高齢となり、動きが鈍くなって、徐々に迫力のある芝居が出来なくなっていった時期で、演劇界と言う雑誌にも、度々、歌舞伎はこのままでは消えて行く。という記事が良く出ていました。

 そうした中で、一人気を吐いていたのは、三代目の猿之助で、この人のすごさは、観客が何を求めているのかを的確につかみ、観客の求める芝居を実践して行ったのです。長い通し狂言を復活上演する際も、ストーリーを大胆に端折って、江戸時代の複雑怪奇な筋立てを、初めて歌舞伎を見に来た観客にもわかるように、明快に作り直すなどして、見ているだけでわかる芝居を提供したのです。

 今考えればそんなことは当たり前じゃないか、と思われますが、昭和40年代の歌舞伎座国立劇場の芝居は何かとわかりにくかったのです。そのことを役者も興行関係者も、「歌舞伎とはそうしたもの」。と決めつけて、別段改めようともしなかったのです。

 江戸時代の芝居は、日の出とともに始まり、日の暮れるまで芝居が続きました。時間にして11時間。作品によっては10段などと言う芝居が一日中、普通に行われていたわけです。その芝居を、いいところだけ二段、三段演じていたのが昭和40年代(今も時々そうです)の演じ方だったわけです。

 ところが、江戸期の歌舞伎は、ストーリーが荒唐無稽なものが多く、鎌倉武士が、時空を超えて、江戸時代の長屋に住む魚屋に生まれ変わったり、江戸市井の髪結いの二枚目の男に生まれ変わったりして、鎌倉時代の因縁の敵を探して、仇討ちをしたりします。それを芝居の途中の説明を飛び越して演じたのでは、なぜ髪結いが、敵討ちをしなければならないのか、髪結いの生まれ変わりが誰だったのか、さっぱりわからなくなります。

 つまり、多くの観客が、歌舞伎は分かりにくいと言うのは、しっかり解説がされていない芝居を見せつけられていたために混乱していたのです。

 三代目の猿之助はそこをすっきり筋が通るように改案をして、更に芝居を面白くするために早変わりを入れたり、立ち回りに本水(ほんみず=舞台一面水槽を作って、水の中で太刀回りをする)を取り入れるなどの演出を付けたのです。

 歌舞伎界では猿之助のこうした活動を異端児と呼び、随分批判されました。然し、猿之助は歌舞伎が生き残るためには歌舞伎自体が変わらなければいけない。と批判に対してもあえて反論せず、自身の改革を押し通しました。

 私のような、10代、20代の芝居ファンは、毎月の猿之助さんの芝居が楽しみで、今度はどんな工夫をするのだろうとワクワクして見ていました。

 

 当然、歌舞伎不振の松竹にあって、猿之助の芝居のみ突出して観客動員がなされたわけです。更に、幸いしたことは、国立劇場が、歌舞伎の将来を見かねて、歌舞伎研修生制度を儲けました。全く歌舞伎の門閥の子弟でない人たちから、生徒を募集して、給料から、稽古事すべての面倒を見て、俳優を育てる活動が始まったのです。

 その活動は素晴らしいのですが、実際、そこから育った研修生が、歌舞伎の俳優の弟子となると、多くは、御曹司の配下になって、一生名代下の役者として、出世もしないまま使い捨てられてしまうのではないかと不安を覚える生徒が多く、研修生のなり手は少なかったのです。

 それに対して、猿之助さんは、「自分には子供がいないから、後継ぎはいない(いないわけではなく、香川照之がいます。然し、猿之助の浮気によって、妻だった浜木綿子と離婚をして、息子の香川は母親について出て行ってしまい、絶縁したです)。もし、芝居を手伝ってくれる人がいて、才能があるなら、猿之助を譲ってもいい」。

 と、宣言をしたのです。元々猿之助一座は規模も小さく人が足らなかったため、敵役も、おやまも不足していました。ましてや、猿之助の看板も譲ると言われたら、国立の研修生は色めき立ちます。

 このため、研修生の中では圧倒的に猿之助一座に入門したがる生徒が多かったわけです。こうして猿之助一座は瞬く間に大きな所帯を持つことになりました。

 松竹の歌舞伎で最も人気のある一座でしたし、なんせ猿之助が次々に新機軸を打ち出して行きますので、座員の活動は多忙を極めます。やがてヤマトタケルのような、スーパー歌舞伎を考案して、どんどん歌舞伎の形態を変えて行きます。そうなると、猿之助の芝居は古典、現代劇の枠を超えて、演劇界一番の人気になって行きます。

 

 と、ここまでが三代目猿之助の成功話です。好事魔多しと言いますが、2003年に猿之助パーキンソン病にかかり、突然、舞台活動が出来なくなります。常日ごろのハードな活動が体の負担を強いていたのでしょう。そうなると、大一座が全く動かなくなり、一門の跡継ぎをどうするかと言う話は急務になります。

 ここに、香川照之が出て来ます。香川は以前から、父親である猿之助との関係修復を希望して、歌舞伎に入りたがっていましたし、何より、香川には男の子(市川男子=だんこ)がいて、この子を行く行くは跡継ぎにしてはどうかと言う話が起こって来ます。然し、子供はまだ幼く、いきなり四代目猿之助にはできません。かといって、歌舞伎の経験のない香川照之をピンチヒッターの四代目に据えて、行く行く子供を五代目にするには無理があります。

 どうしたものかと考えていると、三代目の弟である段四郎の子供、亀治郎がクロースアップされて来ます。亀治郎には子供がいない、結婚する意思もない。そうなら亀治郎を四代目に据え、その先に香川の子供を五代目に据える。もし数式の計算なら素晴らしい回答です。然し、実際そうなるものか。ここから話は複雑な様相になって行きます。詳しいことはまた明日。

続く