神仙戯術(しんせんげじつ) 1
いつもいつも食べ物の話や、内視鏡の話などを書いていると、私のマジックや手妻の技を疑って掛かる人が出るといけないと思い。今日は、私の表芸である手妻の歴史を少しお話ししようと思います。
日本で初めて手妻の伝授本(指導書)が出たのは、元禄九(1696)年、「神仙戯術」が初めとされています。但し、始めに申し上げておきますが、この本はまことに怪しい本です。
なぜ怪しいかと言えば、これは中国の陳眉公が書いた本を漢文訳したものと巻末に記されています。陳眉公とは、文人画の大家で、当時、日本でも知られた画家です。然し、その画家がなぜ手妻の本を出したのか、そこが謎です。
今日のようにアマチュアマジックサークルなどがあって、そこに通っていた有名画家が、仲間に頼まれてマジックの教本を出した。と考えるべきか、いやいや、この時代にそんなことはあり得ないでしょう。先ずマジックの種と言うのは当時は一子相伝で、親子、或いは徒弟にしか伝えることはなく、紙に書いて一冊幾らで販売することなどありえなかったのです。
不思議なことに、神仙戯術は中国国内には原本が見当たらないのです。現代の中国のマジック史の研究家が。神仙戯術の原本を知りません。中国マジック史には、神仙戯術の本が出て来ますが、それは日本で発行された神仙戯術が写真で出ているだけです。
日本に何冊かあって、中国に一冊もない中国の古書とはどういうことでしょう。その陳眉公が書をしたためる時に使った名前が陳継儒だと言うのです。神仙戯術は、陳継儒著と書かれています。中国の本を輸入して日本で漢文訳が付加して書かれたものです。漢字の脇に返り点や送り仮名が振られています。そしてその漢文の訳者は誰なのか、名前が記されていないのです。
と、ここまで書けば、多くの読者はこの本が恐らく日本人の作品だと気付くでしょう。然し、不思議です、日本人を対象とする指導書をなぜ漢文で書かなければならなかったのか、そしてなぜ中国の画家に名前を借りねばならなかったのか、日本人の作者は誰なのか、謎ばかりの本です。
世界で最初にマジックの指導書が出たのは、イギリスで、「ディスカバリー・オブ・ウイッチクラフト」が最初とされています。その後に出た「ホーカス・ポーカス(欧米でよく使われた呪いの言葉、アブラカダブラのようなもの)」は今日までもその名が知られていて、マジックの本にその挿絵が出て来ます。
ホーカス・ポーカスが刊行されたのは1624年です。それから半世紀遅れましたが、東洋の島国で単独のマジック本が出たと言うことは記念すべきことです。世界的にもこの時代にマジックの本が出ることは珍しかったのです。なぜなら、初めに申し上げたように、マジックの種は一子相伝で、人に伝えるべきものではなかったからです。
特に欧州では、マジックと呪術、あるいは宗教とが長い間結びつき、テーブルの上に水晶玉を置き、占いや、予言をする人たちがマジシャン(マジシャンとはそもそも呪い師のこと)、と呼ばれ、彼らが自分の権威づけのために、時々やって見せたのが今日のマジックの数々だったわけです。
すなわち、グラスの中の水が赤いワインに変わったり、水を紙筒の中に入れて、紙を燃やすと、水は紙と共に消え失せたり、今日よくあるマジックを当時は呪い師が演じていたのです。但し、呪いや予言の途中で演じていたとなると、その種が指導書に書かれては大変な迷惑なわけで、当時のマジシャンにとっては営業妨害?で、本の出版元に押し掛け、リンチを加えたり、嫌がらせをしたりしたはずです。単にマジックの種の普及だからという安易な問題では許されない行いだったわけです。
日本も同じだったろうと思います。日本では古くから幻術(げんじゅつ、或いは目くらまし)と呼ばれていたマジックが、江戸時代に入ると、小屋掛け興行になり、木戸銭を取って人に見せる芸能へと変貌します。三味線や太鼓に合わせて囃子を入れ、型をこしらえたり、口上を加えたりして、芸能として作り上げられてゆきます。
その過程で手妻、手品と言う言葉が生まれて行きます。幻術と違い、手妻、手品には、魔術的な要素は影を潜めて行きます。手妻とは手わざのことであり、手品とは不思議を生み出す小道具のことです。つまり、日本では江戸の初期の段階で、手妻は神と決別したことになります。
それでも、当時は、手妻の作品数が少なく、おいそれと受けネタが出来るわけでもないので、昔の作品を大切に使うほかはなく、手妻師にとってはタネを本に書かれて販売されることは痛手だったと思います。
そこで神仙戯術の作者は、自分の名前を伏せるために、わざわざ中国の画家の名前を使い、漢文で書き、そしてそれを自ら訳したのです。自分の名前をなぜ隠したかは明白で、後でリンチに遭うのを避けたためです。こうした私の推測を疑う人もいますが、実は、この本は相当に売れたために、作者は気を良くして続神仙戯術が刊行されます。これこそ妙です。陳さんは1639年に亡くなっているのです。幾ら本が好評だからと言って、どうやって亡くなった人が70年後に続編を出すのでしょうか。やはりこの本の作者は日本人でしょう。
神仙戯術には、20の作品が書かれています。すべて漢文のみで、絵はありませんので、よくこれで理解できたなぁ。と思いますが、当時の日本人は必至の思いで読んだのでしょう。但し、作品全てがマジックの種と言うわけではなく、怪しいもの幾つか載っています。「蚊を寄せ付けない方法」「虱を寄せ付けない方法」などが出ていますが、いずれも、呪いが書かれています。この呪いに効果があるのかどうかは試していないのでわかりませんが、恐らく呪いを唱えてもきっと蚊は来るでしょう。
中には「紙の蝶を飛ばす術」、「紙を丸めてセンスの上に置くと本物の卵に変わる術」。が出て来ます。紙の蝶は、実際の種仕掛けとは違います。たぶんこの時代の新作だったと思いますので、おいそれとは本当のことは書けなかったのでしょう。
卵に関しては、かなり詳しく、甘皮の作り方が書かれています。後にも先にも紙卵の仕掛けの書かれた伝授本はほとんどありませんので、これ一作だけでも、代価を支払っても十分だと判断したのでしょう。
こうした本が出るのは、日本の識字率が著しく高く、(中国や欧州では10~30%くらいしかなかったのに、日本では60%くらいの人が読み書きが出来た)ことが追い風となり、日本人の知識欲に応えるかのようにあらゆる専門書が出回るようになり、日本国内で出版ブームが起こります。神仙戯術とはそうした日本の文化の大きな流れの一端だったのです。
続く