手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

源内と志道軒 1

源内と志道軒 1

 

 日本の歴史上の文化人の中でも、奇矯と、独創性、自由奔放さにおいて、平賀源内の右に出る人はいないでしょう。全く型破りな発想で、ありとあらゆる新規事業に手を染め、それがどれも高いレベルを持っていて新たな道を開発したことが今も驚きを以て語られています。

 西洋絵画を描いたかと思うと、戯作本を出し、本草書(植物、鉱物の研究書)を出せばこれも当たり、発明をし、時にエレキテルなどの珍奇な機械を作り、と、何をやらせても当時のレベルの最先端にいた人で、天才と言えば天才、奇人と言えば奇人、日本の歴史上誰とも違う、コアな人です。

 

 平賀源内は、享保13(1728)年に、高松松平家の家臣の家に生まれます。家は本草学の研究家で、源内も早くから本草学を学びます。真面目に学者の道を行ったなら、その道でそこそこ成功もしたと思いますが、源内は平凡な生き方に飽き足らず、武士の道を捨てて江戸に出て行きます。

 宝暦11(1761)年。源内は閉ざされた地方の武士の生き方から解放され、江戸に出て来ます。江戸では神田白壁町の長屋に住まいし、とりあえず本草学の本を何冊か出します。これがそこそこ当たり、多少その名を知られます。その間に、当時の江戸の文化人に接触を始めます。

 そこでとんでもない老人に出会います。源内が終生師匠と崇めた講釈師の深井志道軒(ふかいしどうけん)です。

 源内が後年、奇矯で知られ、自由奔放に生きたのも、その原型は志道軒にありました。宝暦13(1763)年。源内35歳、志道軒は84歳です。

 志道軒は、毎日浅草観音の境内に葦簀(よしず)張りの小屋を建てて、講釈を語っていました。こう書くと、みすぼらしい場末の芸人と言うイメージを思い浮かべますが、どうして、どうして、志道軒は、当時、市川團十郎、花魁(おいらん)の高尾太夫と並び江戸三大名物になっていたのです。

 江戸見物にやって来る武士も町人も、この三人を見なければ江戸見物に行ったことにはならなかったのです。

 志道軒は、浮世絵にもなり、そのつるつる頭でしわくちゃな顔で講釈をしている絵が、飛ぶように売れたのです。それだけでなく、焼き物の置物になった爺さんの志道軒が土産物屋で売られていたのですから、その人気は大したものでした。

 恐らく源内は友達に連れられて、浅草の小屋掛けに出かけたのでしょう。そこで見た芸人は、今まで出会ったどの老人とも比較の仕様がない、けた外れな老人だったのです。

 先ず、そこそこいい身なりをしたつるっぱげの老人が現れます。老人が持っているのが、30㎝ほどの男性の一物を象った木製の杓で、老人は、助平な話をしながら、時に杓を撫で、時に杓を机に上でたたきながら調子を取って話して行きます。その杓とくだらない話に観客は大喜びです。話は猥談だけでなく、社会の風刺も手厳しく語ります。普通なら早速役人につかまり連れていかれてしまうような話でも、志道軒だけは例外らしく、役人も笑って見ています。

 それが話が進むに連れて。英雄豪傑の戦記物になり、やがて仏教思想を語り、和歌にも精通し、観客は、一方ならない志道軒の知識に傾倒し、満場の拍手で講釈を終えます。

 源内は一目見て、志道軒がただものでないことを知ります。単に助平で、ナンセンスな講釈なら、一顧だにしなかったかも知れません。然し、奥に知識や、仏教哲学があることを知り、志道軒に急接近します。

 

 志道軒は元々僧をしていて、かなり高名な寺で修行をし、高い地位に就きます。寺の経理を任されて、お陰で帳簿をちょろまかし、蓄財ができ、別宅を作り、女を住まわせ、遊びにふけるようになります。それがばれて寺を追われ、女は志道軒の金を持って逃げ、それからは無一文になって困窮し、大道で飴売りまでするようになります。

 見かねた大道の仲間が、知識があって、語りのうまい志道軒の才能を惜しんで、講釈師になることを勧め、浅草で葦簀張りの小屋で講釈を始めたのが50歳です。

 以後、エロと、言いたい放題の漫談が受けて、観客を集め、しまいには江戸の三大名物に数えられるようになります。

 

 自由奔放に生きた志道軒を見て、源内は衝撃を受け、志道軒から自分の生きる姿を見つけたのでしょう。源内は、志道軒に密着し、志道軒の生い立ちから芸風から、すべて書きまとめ、宝暦13(1763)年に「風流志道軒伝」と言う読み物を出します。

 実は志道軒が今日その経歴を知られているのも、源内の書き物のお陰です。今日では、平賀源内を調べて行くうちに、そのサブカルチュアーとして、深井志道軒が出て来るのですが、話は逆で、実は、始めに志道軒の人気があり、その人気にあやかって、源内が、志道軒の伝記を書いて、ヒットさせ、そのおかげで平賀源内は人に知られるようになったのです。

 いわば、源内にとって、志道軒は恩人であり、師匠なのです。年齢も、孫と爺さんほどの差があり、本来話が合うはずはないのですが、その自由な生き方が、二人の天才を結び付けたのです。

 芸人は、いかに人気があっても、生きていればこそ話題になりますが、死後、その芸は語り継ぐことは難しく、時が過ぎれば忘れ去られて行きます。

 書籍を残し、絵画を残し、エレキテルを残した源内は、今も語られています。明日は、エレキテルについてお話ししましょう。

続く