手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

源内と志道軒 2

源内と志道軒 2

 

 歴史の中で眺めていると、平賀源内と言う有名人が、大道で講釈をする深井志道軒を、本にして出したことで志道軒が有名になれたと思う人がありますが、話は逆です。

 高松から出てきた男が、当時江戸で有名だった志道軒に憧れ、志道軒に密着し、志道軒の本を出したことで、作者の源内が一躍有名になれたのです。

 勿論、一から十まで志道軒のお陰ではなく、大道芸人の一生を本にするなどと言う発想自体、当時珍しかったわけですから、源内の着眼点は優れたものといえます。

 これが宝暦13(1763)年のことです。この時代のヨーロッパを考えて見ますと、音楽家のバッハが亡くなるのが1765年です。まだヨーロッパでは宗教の力が人々を支配していて、個人の自由が束縛されていた時代です。

 同時代に日本では、源内が、侍をやめて、江戸に出て、講釈師の生き方に憧れ、講釈師を追いかけ、本まで出していたのです。そしてそれを庶民が喝采をして本を買い漁っていたのです。信じられないほどの自由さがあり、庶民文化が開花していたのです。

 源内は志道軒の自由奔放な生き方をそっくり受け継いで、その後、乱れた人生を送ります。乱れつつもそれが堕落とならなかったのは、折々に自分の活動を文字にして周囲に伝えていたことです。それによって平賀源内と言う人物がただならない人であることを知らしめたのです。

 ここは自営業で生きる人にとって、とても重要なポイントです。どんな職業であろうと、どんな研究をしようと、個人の活動と言うのはなかなか人に知られないのです。

 それはマジシャンも同じです。マジックのアイディアをひたすら考えて、稽古をしていても、結果を示さない限り、マジシャンの活動はまったくないも同じなのです。

 結果とは出演することですから、稽古だけをしていても人に影響を与えることはできません。然し、そんな時でも折々に今、何をしているかを周囲の人に伝えることが大切です。それがなければ人との縁が絶えてしまうのです。

 こうした点、源内は天性の文化人であり、文筆家として自分を売り込む天才だったのです。

 

 大変有名な話ですが、源内は知り合いのうなぎ屋が、「夏場に炭の前でうなぎを焼いていても、見た目が暑苦しくて、人が店に入って来ません。何とかうなぎが売れる良い手はないものでしょうか」。と、源内に相談すると、源内は紙に「土用丑の日 うなぎを食する日 平賀源内」と書いて店の親父に渡したのです。

 土用丑の日がうなぎと何の関係があるのか、庶民は知りません。然し、暑い夏こそウナギを食べてスタミナを取る。という意味のことを、もっともらしい講釈を添えて、親父に伝えます。親父は、言われるままに張り紙を店の前に出すと、面白いように人が入ってきて、うなぎが売れたのです。

 今日でいうキャッチコピーの始まりです。今に続く土用丑の日は、長い解説を一言で伝えた見事な宣伝文句だったのです。

 

 安永5(1776)年に源内は、長崎を旅します。そこで古道具屋を覗くと、偶然エレキテルを見つけます。エレキテルとは、静電気を応用した発電機です。オランダ製で、主に治療器具として使います。今日でも肩こりなどに弱電流を流して、神経を刺激することで血流を良くする治療があります。あれと同じことをオランダでは既に考えていたのです。

 恐らく源内はそうした治療器具があることは知っていたのでしょう。ただし残念ながら機械は壊れていました。然し、オランダ語で書かれた解説書が付いています。源内は、わずかながらオランダ語が分かります。

 そこで源内はエレキテルを買い求め、江戸に持ち帰り、出入りの指物師に指示して修理をします。道具は、外に付いたハンドルを回すと、中に鳥の羽根の付いた軸棒があり、羽根は回転しつつ鉄の板と接触することで静電気を起こします。それを両極からコードを伸ばして、両端を治療個所に充てると、電気が発生し、神経を呼び起こす仕掛けです。

 源内はさっそく電気治療を始めます。当時の人々にとって、電気の刺激は珍しく、電気効果と電気ショックですぐに話題になります。やがて物好きな人が、電気を直に体感したいと集まってきます。

 そこで源内は、電気を体感したい人を座敷に輪になって座ってもらい。手をつないでもらって、両端の人にコードを握ってもらいます。すると一瞬にして全員が感電して、大騒ぎになります。

 これは面白いと、次々と人々がやってきて、治療よりも感電ゲームを楽しむようになります。あまりの人気で、源内はほかの研究が出来なくなります。

 すると、噂を聞いて興行師がやってきて、見世物に使いたいので、エレキテルを売ってくれと持ち掛けます。

 源内は、研究材料であるエレキテルを見せ物にするなどもってのほかと興行師を追い返します。然し、興行師はあきらめません。

 源内が、エレキテルを修理した指物師を探し出し、目の前に金を積んで複製を依頼します。指物師は始め、源内との義理から断りますが、大金を前に目がくらみ、エレキテルをコピーし、興行師に売り渡します。

 興行師はさっそく南蛮渡来のエレキテルと銘打って興行を始め、大当たりをします。

 これを知った源内はショックを受け、ノイローゼに罹ります。まったく人が信頼できなくなり、被害妄想に陥ります。

普段でも何かうわ言のような言葉を発し、目が上の空になっています。

 ある日、別件で職人を招き、道具の製作を相談しているときに、今いる職人を、エレキテルを売り払った指物師と勘違いをし、突然刀を抜いて、二人の職人を切り殺してしまいます。

 源内は捕まって牢屋に入れられます。当時の裁判などは捕まってしまえば死刑も同じで、寒い冬のさ中に一重の着物で、火の気のない牢屋に入れられるわけですので、たちまち体を壊し、源内は、安永8(1779)年12月18日獄死します。

 

 話は蛇足になりますが、見世物のエレキテルは、大坂にまで回って、道頓堀で興行します。そこへオランダの使節団が来日し、たまたまエレキテルを見て、興行師に複製を依頼します。将軍への謁見を済ませ、帰路大阪に立ち寄り、約束のエレキテルを買い受け、オランダに持ち帰り、母国で、「日本人はここまでエレキテルを模倣する力がある」。と言って周囲を驚かせたと言う話が残っています。

続く