手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ジェラルド・コスキー 1

 

ジェラルド・コスキー 1

 今では、ジェラルド・コスキーと言ってすぐにわかる人はもういないでしょう。長らくロサンゼルスに住んで、SAM(ソサエティ オブ アメリカン マジシャンズ)の役員をしていて、マジックキャッスルのオーナー、ビル・ラーセンを助け、キャッスル設立に協力をし、第二次大戦前から石田天海との交友があり、戦争中、戦後の長きにわたり天海夫婦を助け、物心両面から天海師を支えました。戦後になって「マジックオブ天海」と言う本を出しています。

 コスキーさんはイギリス系ユダヤ人で、見るからに穏やかな紳士であり、私が会った1970年代末で、既に70歳を超えていたと思います。私はキャッスルで氏に会うたびに、天海の話が聞きたくて、氏が現れるとバーで飲んでいても起立で迎えました。すると、アメリカのプロマジシャンは、「新太郎はなぜコスキーを起立で迎えるのか」。と不思議がりました。コスキーさんはアマチュアマジシャン(セミプロ?)なのです。

 それはコスキーさんが戦中戦後苦労していた天海さんを助けた経緯からであり、更に天海の作品を良く知っていて、実際演じて見せてくれたからです。ご当人は天海から習い覚えたマジックで、日本スタイルの手順を持っていて、時折パーティーを頼まれるとジャパニーズマジックを見せていたそうです。

 私がキャッスルに出演すると、必ず何日か見に来て、その都度話をしました。一度は、キャッスルの近くにある氏のマンションに招待されました。高級で広くて、きれいに整理された部屋に通されて、天海の写真を見せてもらい、30年以上にわたる交友をまるで昨日の話であるかのように訥々と語ってくれました。

 「私は何年もこの部屋に人を引きれたことはない。でも天海を知るものなら歓迎したい」。コスキーさんはそう言って喜んでくれました。

 ヴァーノン、ビルラーセン(一世)、コスキー、天海と言う人たちの付き合いは、1940年代から、50年代にかけてのことで、無論私の知らない時代です。ビルラーセンは、父親のビルラーセン一世(親子同名)の時代に、ドイツからロサンゼルスに渡って来て、ロサンゼルスのアッパークラスを相手にマジックを見せて評判をとった人でした。

 しかし、第二次大戦中は、ドイツ系であると言う理由で差別を受け、仕事にも恵まれず、随分苦しい生活を余儀なくされたようです。父親のビルラーセンは、戦後、随分天海を助けたようです。天海とラーセン一家との付き合いは二代に及んでいるわけです。

 

 アメリカ国内では昭和初年から日本人の排斥運動が盛んになりました。有色人種に仕事を奪われた低所得のアメリカ人が、アジア人憎しで、天海の出演する劇場の楽屋出口にたむろしていて、天海を見つけると何人かで寄ってたかって殴り倒すと言うようなことが何度かあったようです。別に天海が悪いわけではありません。日本人であるだけでひどい仕打ちを受けたのです。あまりに物騒なので、天海師は一時ハワイに活動を移しました。ある日、明け方にサイレンが鳴り、街は静まり返り、何事かと街を訪ね歩くと、今、真珠湾攻撃があったと言ったそうです。

 天海師は戦時中、日本人であることを隠し、中国服を着て、「テンハイ」、と、中国読みをして活動していました。舞台活動は戦後に至っても苦労の連続だったようです。

 

  戦後はロサンゼルスを起点にアメリカ国内で活動を再開します。天海師にとってはまだまだ受難な時代でした。それでも、仲間の協力で仕事を世話してもらい、全米各地で公演をして、生活は徐々に安定して行きました。

 然し運の悪いことに、1953年、シカゴの興行先で、天海師は突然倒れます。狭心症でした。長くアメリカで活動して、しかも日本人として、いわれなき差別を受けて、たくさんのストレスを抱え、それが重なって心臓に負担が来たのでしょう。

 この時、シカゴで入院していた天海師に、次々とマジシャンが見舞に来て、天海の苦境を察して、5ドル10ドルと見舞いの金を持ってきてくれたそうです。日頃差別に苦しんでいた天海師にとっては仲間の支援は有り難かったそうです。ひとまず退院したのちにロサンゼルスに戻ります。

 せっかく仕事が順調になって来て、生活も安定していたのですが思わぬところで舞台活動を止められてしまいます。その苦境を察して、コスキーさんは、仲間に声を掛けて資金集めを始めます。ところが天海師はその申し出を断ります。

 「自分がこうして生きて来れたのも、多くのアメリカの仲間が支えてくれたからだ。これ以上何かをしてもらってもお返しすることが出来ない。だから何もしないでほしい」。と言いました。その上で、日本に帰国する意思を伝えました。

 コスキーさんは天海と言う人の欲のなさ、気持ちの美しさにすっかり惚れ込んでしまいます。そこで盛大なお別れパーティーを企画します。そこには天海を知るお客様、マジック関係者、多くの人が集まり華やかな晩餐会が開かれました。

 ここで天海師は挨拶をし「私が30数年アメリカで活動が出来て、マジシャンとして生きて来れたのはひとえにアメリカの仲間が暖かく支えてくれたからだ」。と挨拶しました。そこにはアメリカ人が如何にひどい仕打ちをしたかと言うことは一言も述べませんでした。偏に仲間に感謝をしました。そして、

 「もう一つ、私が今日までマジシャンとして活動できたことは、妻のお絹のお陰です。お絹が仕事がないときも、食べ物のないときも、文句を言わず支えてくれたからこそ今日があるのです」。ここで天海は涙声になり、「私は天海と言う名前で多くの皆さんに評価をされて幸せな人生を送ることができました。然しどうか、私が受ける名誉の一端をお絹に与えてやってください。私にはかけ替えのない妻なのです」。

 そう言い終えたとたん、会場の人々は立ち上がり鳴りやまない拍手を送りました。コスキーさんは、金品を受け取ろうとしない天海師に、SAMの生涯名誉会員の称号を送りました。この時代のSAMは極めて保守的な組織で、有色人種はなかなか会員に入れなかったのです。入会書の欄に、髪の色、肌の色、目の色まで書かせた時代です。ましてや日本人を名誉会員にするのは当時としては生易しいことではなかったはずです。然し、コスキーさんは役員に根回しをしたらしく、何とか天海師を名誉会員にしました。

 こうして1958年3月、天海お絹夫妻はアメリカを立ち、日本に帰国をします。

続く

 

 アゴラカフェは、9月10月、藤山の手妻公演、若手の公演はお休みします。Daiさんの演劇集団によるマジックショウのみ、9月25日、10月30日、公演します。カズカタヤマさんの公演は、9月29日、6時から公演します。お間違いのないようにお越しください。