手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

天海と島田 1

天海と島田 1 

 天海師は帰国後、相当に多忙な毎日を過ごしていました。その間も島田師の存在に気をかけて何度か指導をしたようです。何しろ、世界で誰もやったことのない8つ玉を完成させて、36個の玉を次々に出現させた島田師ですから、奇術界ではどこでも話題沸騰でした。

 天海師にすれば、こうした若者が日本にいたと言うこと自体驚きで、自身がアメリカで学んで来たスライハンドの技法や手順を、島田師に伝えたいと言う思いは強かったようです。

 天海師はアメリカで活動しつつも、何度も戦前に日本に帰って来ています。昭和5年、10年、15年、23年と4回帰国をしています。天海は帰国をするとすぐに天勝一座に組み込まれ、一年間日本中を興行して回ります。不入りのない一座にゲスト待遇で出演したため、天海師に支払われたギャラは法外なものだったようです。

 天海師の演技は、天勝一座に出演するたびに大きな話題になり、日本のアマチュアマジシャンはこぞって天海の技を見たさに天勝一座の興行を見に行ったそうです。

 そうした結果、天海師は日本の奇術界では神格化され、その演技、技法は極めて高い評価を得ていました。と言うのも、戦前の日本では海外のマジシャンが来日する機会が少なかったため、天海の来日がほぼ唯一と言っていいくらい、欧米の風を感じさせる演技だったのだと思います。

 そうした戦前からの実績から、昭和33年の天海師の帰国は、大きな期待が高まっていたのです。しかし、いざ帰国をしてみると、日本国内の様子が変わってしまったことを感じずにはいられなかったようです。

 

 当初は島田師も、天海師の指導を喜んで受けていたようです。然し、徐々に天海師の考え方に疑問を持ち始めます。島田師いわく、「天海さんの演技は、不思議が生まれるまでに手順が煩雑で、やたらに難しいんだよね。カードでも、シルク一枚でも、スチール(観客に気付かれないように取って来る行為)をしたら、それを右手から左手にパス(気づかれないように握ったものを反対の手に移す)、またパスを繰り返して、お客さんがスチールをしたんじゃないかと言う疑問が消えたころ、いきなりシルク一枚、カード数枚が出て来る。それは確かに不思議だけれども、その不思議はシルク一枚が出たと言う不思議にすぎない。苦労してやった演技が、お客さんに与えるインパクトはとても小さいんだよ。不思議と言うのはもっとダイレクトであるべきで、もっと強烈なものでないと仕事にならないんじゃないかと思ったんだ」。

 と、はっきりと否定的な考えを持つようになります。つい半年前に荻窪公会堂で天海師の演技を見て、立ち上がれないくらい感動したものを、いざ習ってみると、仕組みが複雑で、とんでもなく難しい技法のため、島田師は音を上げてしまいます。

 天海師にすれば、8つ玉のような難解な手順を作り上げた島田師なら、十分に天海の技法を習得するだろうと考え指導をしました。が、そうはならなくなっていました。どうもこの辺りから日本の奇術愛好家が、受け身なだけで天海師を受け入れる状況ではなくなってきたようなのです。戦後になって情報が増え、マジックの考え方が変わって行ったようです。

 

 そして決定的な出来事が起きます。昭和36年に、映画の「ヨーロッパの夜」が封切されて、その中でチャニングポロックが鳩出しの演技を披露します。鳩出しのことは天海師もアメリカにいた時に随分見ています。

 私は直接天海師がポロックをどう考えていたかの資料は持ってはいませんが、コスキーさんや、ロサンゼルスで私のマネージメントをしてくれていた、アーノルド・ファーストさんから聞くところによると、かなり鳩出しには辛辣な批判をしていたようです。

 実際、鳩出しの演技は、従来のスライハンドの技法を否定して生まれてきたものです。右手でスチールした鳩を右手で出してしまい、そこにはパスも改めもありません。しかも鳩のサイズは手のひらよりも大きいため、明らかに保持するのに無理があります。手に持った時点で出す以外方法がないのです。体に仕込む際にも、鳩はかなり大きいため、6羽も7羽も体に仕込むこと自体かなり無理があります。無理に無理を重ねてインパクトを作り上げることがいいことか、結果として種仕掛けの暴露につながり、スライハンドの寿命を縮めてしまうのではないか。天海師はそんな風に考えていたようです。

 然し、天海師やスライディーニと言った、古典的(今となってはですが)なスライハンドマジシャンの思いとは裏腹に、鳩出しは世界中で爆発的なブームになり、映画までもがポロックの演技を取り上げるようになって、ついに日本にも上陸します。

 

 鳩出しは、いわば鉄砲伝来のようなもので、馬に乗って一騎打ちをしていた昔の戦いから、集団の戦いに変わり、それまでの戦争の形をそっくり変えてしまうような出来事だったのです。アメリカ中のナイトクラブではポロックのスケジュールが奪い合いになるほどの人気を手に入れます。

 「ヨーロッパの夜」と言う映画は、決して大作映画ではなく、ヨーロッパのナイトクラブで演じられていた様々な演芸を羅列しただけの企画だったのですが、そこで演じられていた芸がとびきりの技量とセンスのある芸だったため、映画自体たちまち人気となります。その中でもポロックの演じた鳩出しは大人気で、日本でも話題になり、特にマジック愛好家が何度も映画館に出かけ、8ミリを使って映像を盗み取り、ひたすら鳩出しの研究を始めました。

 昭和36年当時の日本の若手マジシャン、引田天功や、島田晴夫が鳩出しの飛びついて、真似をし始めるのは当然の流れだったのです。島田師は鳩出しに夢中になります。と同時に天海師との関係は疎遠になって行きます。

 こうした流れを天海師は傍観するのみだったのでしょうか。いずれにしろ、天海師は昭和36年に、心筋梗塞になり、入院をします。その後たびたび体調不良が起こり、昭和40年には故郷の名古屋の引っ越してしまいます。

 

 「天海さんは日本に帰って来るべきではなかった」。とは、私を良く面倒見てくれたアマチュアの松田昇太郎(設計技師)さんの言葉です。昭和5年新橋演舞場で見た天海のすばらしさをたびたび私に語って聞かせてくれた松田さんにとっては、日本に帰国をして、病気のせいもあってか技量が衰え、よく失敗した天海師を見て、そう言ったのです。

 戦前は神様扱いをされ、天海師の演じる技法は一つ一つが珠玉の輝きを持っていたものが、知らず知らずに光が失せてしまったのでしょうか。その後に来たポロックのあまりに大きな成功が、まるで浦島太郎が生まれ故郷に戻って来たかのような、場違いな印象を感じて、失意の中、玉手箱を開けざるを得なかったような状況になって行ったのでしょうか。その当たりはまた明日お話ししましょう。

続く