手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ジェラルド・コスキー 3

ジェラルド・コスキー 3

 

 私がジェラルドコスキーさんについて書く理由は、コスキーさんは「マジックオブ天海」と言うハードカバーの本を出したからです。

 私と天海師との縁は皆無でした。年齢的にはお会い出来る可能性はあったのですが、名古屋在住の師と東京住まいの私ではチャンスがありませんでした。師は私が17際の時に亡くなり、その頃私は夏休みのたびごとに名古屋に行ってショウをしていた時でした。そうなら会えないものでもなかったはずですが、その頃には天海師はもう病院に入院されていました。一度でもお会いできればどれほどよかったかと惜しまれます。私が天海師の作品に接したのは、天海師の死後で、多くは二代目松浦天海さんから習って知りました。

 その後、「マジックオブ天海」を入手して、天海師の生い立ちから、作品を知ることになりますが、何しろ英文の本ですから、私の英語能力では知れています。その著者であるコスキーさんに会いたいと言う気持ちは強く思っていたのです。それがマジックキャッスルに出演したことで思いが達せられたことは幸いでした

 実際、コスキーさんから聞いた天海師の日常や、作品は随分印象的なものでした、何しろ一緒に活動して、親友だった人から見せてもらう天海の演技は説得力のあるものでした。

 

 コスキーさん曰く、天海師は、大正13(1924)年に天勝一座で渡米して以来、アメリカに残り、ボードビルの仕事場で活動して、昭和33(1958)年に帰国をするまで、30余年に渡ってアメリカで活動しました。この間、天海師は多くのアメリカマジシャンと交流を持ち、有能なマジシャンには積極的に近づいて行き、レッスン料を支払ってマジックを習得しました。師が学んだ作品は膨大で、当時のアメリカのマジシャンの中でも抜きんでて多くのことを知っていました。又は独自のアレンジの才能があり、必ず、習った作品を自分流に改案し、改案のたびに仲間に見せていました。

 師の作品は会うたび変化をし、より洗練さを増して行きました。師は時々人に指導もしましたが、習いに行くたびに前回習ったものとは違ったものになっていました。生徒が「この間習った演技と違う」。と言うと、師は、「この方がいいからこっちを覚えなさい」。と言ったそうです。わずか二週間ほどの間でも手順が変わったのです。

 それらの作品を、師は膨大なメモを作って残しました。絵のうまくない師は、例えばロープの作品をメモするのに、毛糸を使って、メモに色の違う毛糸をノリで張り付けて、複雑なロープの重なりを自分流に記録していました。そのメモは誰に発表するものでもないもので、ただ自身の忘備録として残したものでした。

 そうしたことにかかる時間は膨大なもので、審美眼を持って師が選んだ作品はどれも一級品で、アメリカのスライハンドの、最も層の厚い時代の作品として、何としても残しておきたい極めて貴重な財産だったのです。それゆえ、コスキーさんは著作にして残そうとしたのでした。

 然し、忘備録に過ぎない師のメモは、よほど彼の作品を理解した人が、愛情をもって向き合わなければ本にならないものでした。時にイラストレーターに書き直させたり、写真を入れたり、文章を加筆するなどして苦難の末に完成させたのです。それもこれも天海師とコスキーさんの友情のなせる業だったのでしょう。

 私は、コスキーさんから出版の話が直接聞けたことは幸いでした。別段私は天海研究者ではありませんが、あれほど偉大な功績を残したマジシャンでありながら、私と同時代に天海を研究をする人が殆ど日本で現れないことを残念に思っていました。

 日本では昭和40年代から50年代に、風路田政敏さんが天海賞と言う催しを毎年12月1日(天海師の誕生日)に開催して、有能な作品を生んだ人を讃えていました。

 その催しも今はなく、天海師は日本でもアメリカでも、日に日に名前が薄れて行きました。今日では、「あぁ、天海パームを考えたマジシャンか」。と言われる程度で、師の実力はほとんど知られていません。

 

 話を勧めましょう。昭和33年4月21日に横浜港に帰国。狭心症はだいぶ良くなったようですが、日本ではもう舞台活動は控えて、隠居をするつもりでいたようです。ところが、その年に催された杉並公会堂のマジックショウや、読売ホールのマジックショウに出演することになり、杉並公会堂で、天洋さん(日本奇術協会会長)が連れて来た少年、島田晴夫師と出会い、島田師は楽屋で挨拶代わりに4ツ玉を演じます。

 この手順は、戦前天海師が理論上は可能と言うことで、メモして、和歌山の金沢天耕さんに伝えていたもので、1つのボールが片手でいきなり4つになると言うものです。天耕さんはそれを本にして仲間に配っていたものを、10代の島田師が読んで、工夫をして作り上げたものでした。

 島田師がそれを難なく手順にしていることに天海師は驚き、「そこまでできるなら、きっと両手で演じて、8つにすることも出来るはずだ」。とアドバイスをします。島田師はそれを聞いて、すぐに練習を始め、その年の秋の天洋大会で8つ玉を発表してセンセーショナルなデビューを果たしました。

 天海師は島田師を見て日本にこれほどの技術を持った若者がいたことに驚き、早速自分の元に習いに来るように伝えました。無論、授業料など取りません。この時、島田師まだ17歳です。

 天海師にとっては、日本の奇術界ははまだまだ未開発で、何とか若い人材を育てたいと考えていたようですが、どうやらこの時、自身の後継者の一人として島田師を考えていた節があります。翌年からはNETテレビ(今のテレビ朝日)から。毎週日曜日の夜に天海師を中心としたマジックショウがレギュラー化され、一年以上続きます。

 実はこの番組を熱心に8ミリで撮影して記録していたアマチュアさんがいて、(当時はビデオがないため、テレビに向かって8ミリで撮影をしていたのです。8ミリフイルムは高価で、毎週二巻のフイルムに納めるのはとても費用の掛かることでした。

 今その数多くのビデオを納めたものが私の家にあり、そこで在りし日の天海師の演技を知ることが出来ます。

 この頃天海師は原宿に家を借りて暮らしていました。、帰国後の天海師は多忙で、かなりあちこちで公演をしていたようです。その合間を縫って、若き島田少年を指導したようなのですが、実はこの関係はあまりうまく行きませんでした。その理由は明日お話ししましょう。

続く