手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ナチズム 2

ナチズム 2

 

 ヒトラーが政治活動を始めたとき、自身が手本としたのは、ムッソリーニでした。少なくとも1920年代から30年代前半までは、ヒトラーは、ムッソリーニをひたすら模写し、ムッソリーニになりたいと言う願望を持ち続けていたのです。

 ベニート・ムッソリーニは1883年生まれ。ヒトラーは1889年生まれ。6つ違いです。ヒトラーミュンヘンナチス党を起こして政治に参画したのが1921年。同じ年にはムッソリーニは、もうイタリアの国会議員に当選していました。そして、国民ファシスタ党を率い、1922年にはローマ進軍を果たし、イタリア全土を掌握しています。

 ヒトラーの出遅れは明らかで、ファシスタ党が輝かしき成果を上げているのを横目で見ながら、ヒトラーは、まだミュンヘンの路上で警官に追われながら失業者相手に演説をしている状況でした。

 実際、ヒトラーが、ムッソリーニに直接会えたのは、1934年になってからで、ようやくナチスドイツ国内の第一党になったころです。

 1934年にヒトラーはベネティアに出向き、ムッソリーニに会っています。ところが、ムッソリーニの態度はそっけないものでした。ブロマイドにサインを頼んでも相手にもされませんでした。この時既に、ムッソリーニは、国王からも、バチカンからも、経済界からも絶大な支持を受け、イタリアの経済発展を遂げさせて飛ぶ鳥落とす勢いだったのです。

 畏敬の念を抱いて近付いて来るヒトラーに、ムッソリーニは、第一印象で、自分が付き合う相手ではないと判断したようです。知性のなさ、人としての未熟さを見て取ったようです。対してヒトラーは、ムッソリーニの一挙手一挙足を観察し、歴史上の英雄を見るような目で接しました。

 ムッソリーニは、ベネティアの広場にヒトラーを招待し、そこに集まる何万と言う聴衆の前で大演説をぶちます。聴衆は広場一杯に集まっています。然し、誰一人声を発しません。やがてムッソリーニが現れると割れんばかりの拍手が起きます。長い拍手の後、聴衆はまた静粛に戻ります。それからムッソリーニの演説が始まります。

 これまでは、ニュースなどの映像で断片を見て、真似ていたムッソリーニを、初めて横から眺めたヒトラーは、大感激します。堂々とした姿、オーバーなジェスチュアー。激しいセリフ。体全体から絞り出すような迫力。後日、まるでローマの皇帝を見るようだったと感想を述べています。

 ヒトラームッソリーニのすることを何から何まで真似しました。右手を上げて敬礼するスタイルは、そもそもローマ時代の敬礼でした。それをムッソリーニは採用します。ヒトラーナチスでも同じ敬礼を採用します。

 ファシスタ党の私設軍隊、黒シャツ隊は、ナチスではSS隊となって組織します。

 

 ファシズムとナチズムを混同して語る歴史書がありますが、この二つは似ているようでかなり違います。ファッショと言うのは、イタリア語で、束ねると言う意味です。そこから発展して、国を一つにまとめることがファッショです。

 日本の江戸時代と同様に、イタリアは小さな領主がバラバラに国内を治めていました。イギリスやフランスが統一国となって、大きな軍隊を持ち、経済発展を果たして、海外に進出して行く姿を横目で見ながら、イタリアは長らく町や県単位の政治しかできなかったのです。それが一つにまとまったのは1870年です。日本の明治維新の1868年とほぼ同じ時期になります。

 国が統一され、国王が統治しても、政治も経済も旧体然としていて、国民の生活は少しも良くなりませんでした。そもそも、国王とバチカンの二つの勢力が複雑に入り組んで、統治しているため、なかなか意思の統一が図れません。第一次大戦ではイタリアは連合国に入って戦い、戦勝国になっていながら、戦後は立ち回りの悪さから、満足な賠償金が手に入らず、国民は塗炭の苦しみを味わっていました。

 そこへ現れたのがムッソリーニでした。ムッソリーニは、まとまりのないイタリアをひとまず統一させることに腐心しました。ファッショが束ねると言う意味で、それをテーマとしたのは、至極当然なことで、イタリアには強い力でまとまることが肝心だったのです。

 どうイタリアをまとめるか、について、ムッソリーニは、古(いにしえ)のローマ帝国をイメージしました。先ず、農業や、工業を発展させ、強い軍隊を持ち、カリスマ性を持った政治家によってイタリアをまとめる。これが国民ファシスタ党の目的だったのです。

 この点、ナチズムとはかなり違います。ナチズムは、初めにアーリア人の人種優越意識が語られます。優れたアーリア人(ドイツ人)が、周辺諸国を支配して、大きな国を作って行こうとするのがナチズムです。ナチスは、とかくユダヤ人の迫害ばかりが目立っていますが、ユダヤの迫害はごく一部のことで、その実、ナチスが本当に迫害したのは、スラブ人、つまりロシアなのです。ロシア人が広い国土を持っていることそれそのものが悪の所業であるとナチスは考えていたのです。

 ドイツにすれば、フランスを攻める、イギリスを攻めると言った侵略は前座芸に過ぎません。本当の狙いはロシアの領土だったのです。人口の増え続けるドイツにおいて、安定した食料をまかなうためにはウクライナベラルーシと言った広大な農業地が必要だったのです。

 

 ムッソリーニファシズムには人種差別はありません。後にドイツと同盟を結ぶと、ドイツから、ユダヤ人を捕まえて収容所に入れろと命令されますが、ムッソリーニユダヤ人の迫害には手を貸しませんでした。またロシア人の迫害にも消極的でした。

 ムッソリーニは知性のある人で、当初は共産主義社会主義にも、極めて深い理解を持っていました。然し、社会主義者が度々ストを起こしたり、労働者を焚きつけて武装蜂起したりするに及んで。徐々に社会主義者を取り締まる立場に変わって行きます。

 そうしたムッソリーニの活動を、国王も、バチカンも、イタリアの経済界も喝采で迎えたのです。ムッソリーニナチスと組んだことで悲劇的な結末を迎えますが、それでもイタリア国内では今もムッソリーニは英雄です。個人的にはムッソリーニを悪く言う人は少ないのです。ドイツ人が、第二次世界大戦の責任をすべてヒトラーナチスに転嫁して、責任逃れをしたのとは対照的です。

続く