手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ビスマルク

ビスマルク

 

 一昨日(12日)、なぜロシアは他国を侵略するのかについて、お話ししました。地政学ヒトラーが、その侵略を正当化する手段として利用したために、第二次世界大戦以降、さすがに大国のエゴを肯定する考え方はまずいと、影響力を弱めています。

 然し、その考え方は、欧州各国で未だに残っており、特にロシアの、ウクライナ侵攻を見ると、ロシアは地政学の信奉者であり、彼らからすれば、ウクライナ侵攻は自衛の戦いなのです。

 ロシアからすればウクライナが独立国であるか否かは関係なく、自国にとって必要な、広大な農場。製鉄業、機械工業、黒海に続く天然の良港。等を所有している限りウクライナはロシアのものでなければならず、半植民地のまま抑え込まなければならないのです。これが200年ずっと続いてきたウクライナへの圧政なのです。

 ウクライナがロシアの植民地化を望まないとしても、ロシアはウクライナの独立を考えたこともありません。ウクライナの都合など関係なく、自分にとって必要なものは力で奪ってでも自分のものにするのです。

 ウクライナを失うことは、例えて言えば、日本の関東地方がそっくり独立されるようなものです。生産力が高く、気候が良く、平野が多く、港に恵まれた土地が自国から失われることはロシアにとっては最大の不幸なのです。

 今、世界各国は、ウクライナに侵攻したロシアを非難していますが、もし、ロシアが一週間でウクライナを制圧して、ウクライナ全土がロシアとなっていたら、それを非難して、戦車やミサイルを飛ばして、ウクライナを助ける国が一国でもあるでしょうか。恐らく取られてしまったらそれでお終いでしょう。かつて、ウクライナクリミア半島を攻められた時と同じです。結局、欧州の人の考え方の中には、いまだに、大国が小国を取ってもそれは致し方ない。という地政学的な考えが根強く残っているのです。

 

 明治6(1873)年、日本は岩倉使節団と言う、日本の政治の中枢をなす人材を欧州に送り、視察旅行をしました。大久保利通伊藤博文らが同行しています。一年に及ぶ視察でしたが、日本政府はよく一年も政府の要人を海外派遣したと思います。実は、この視察旅行が、この先の日本の針路を決定づける結果になります。

 彼らの目的は、江戸幕府が各国と結んだ不平等条約を改正して、対等な関係に持って行きたいとするもので、彼らは意気揚々と欧州各国に乗り込みます。然し、イギリスでは、憲法すら持たない日本とまともな契約は結べないとにべもなく断られます。確かに憲法がなければ、日本人の都合のいいように口頭で法律が曲げられてしまいますから、信用できる国とは言えません。そこで、大久保や伊藤は憲法を作る事の重要性を知ります。そしてプロシア(現在のドイツ)に行き、プロシアの政治体制を学びます。プロシアはつい数年前までは300もの諸侯が集まった封建国家の集団だったため、徳川幕府とよく似ています。しかも、皇帝がいて、皇帝の元に憲法が成り立つ、欽定憲法を持っていました。このスタイルこそ天皇を持つ日本のあり方そのものではないかと考え、使節団は熱心にプロシアの法律を学びます。

 プロシアは明治3(1871)年に、普仏戦争で、フランス軍を破り、大勝利をして、その勢いで300諸侯を廃して、ドイツ帝国を建国します。つまり、明治元(1868)年の明治維新を起こした日本とほぼ同じ時期に国家の成立を果たしたことになります。普仏戦争と、ドイツ帝国の建国を果たしたのは、プロシアの宰相、ビスマルクです。彼は当時ドイツの英雄でした。

 日本の若き政治家がプロシアに親近感を寄せたことは充分頷けます。ところが、実際プロシアに行くと、プロシアの政治は混沌としていました。ウィルヘルム皇帝と会うと、「議会を持つのはいいけども、議会にあまり権限を与えてはいけない」。と言い、「議会は問題解決をひたすら遅らせるだけのものだ」。と露骨に議会を批判しました。

 また、宰相のビスマルクに会おうとしても、ビスマルクは、たばこの専売制を議会に否定され四苦八苦しています。たばこの専売権が通れば大きな収入が生まれ、軍備の拡張は易々と出来るのです。然し議会はそれ認めません。議会に嫌気がさしたビスマルクは自宅に籠って議会に出て来なくなります。世界に冠たるビスマルクが引き籠っているのです。

 こんな状況を見て、日本の視察団は、憲法を作って、それによって、不平等条約を無くそうと考えていたものが、憲法が絶対のものではなく、法はむしろ自分たちの行動を縛り付ける行為となり、欧州は憲法があっても、必ずしも、理屈の通り整然と事が決まって行くわけでないことを垣間見て、唖然とします。

 しかも、一行は、ビスマルクの公邸に招待され、少人数でビスマルクプロシアの現状を聞かされます。この時、なぜビスマルクが、日本と言う、聞いたこともないアジアの小国の視察団を前に心の告白をしたのかは謎です。然し、この時の言葉がその後に日本を決定づけます。大変に興味深い話ですので詳しく書きます。

 「世界の国々は、表面は、親しく、礼節を以て交わってはいるが、それは表面だけのこと、その実、常に相手の強弱優劣を推し量り、隙があれば侵略を考えている。

 プロシアは私の幼いころは、300に及ぶ小国で成り立っていた。小国であるがゆえに、大国に侵略され、ナポレオン戦争のときには、フランスから一億ドル(現代の5兆円)もの賠償金を課せられ、悲惨な状態だった。

 公法(国際公法)などと言うものは、強国の都合の良いときには公法を盾に正当化して来るが、自国が不利になれば、たちまち武力を持って解決しようとする。つまり公法とは強国の都合のためにあるもので、小国を守るためのものではない。

 小国が如何に真面目に公法を守って、ルールにのっとって外交をしても、大国は小国を認めない。大国は白を黒と言いくるめ、相手国を凌辱する。つまり小国には公法は役に立たない。小国が自国の権利を主張したいのなら、自力で強い軍隊を持ち、戦う以外にない」。

 当時飛ぶ鳥落とす勢いの宰相ビスマルクの言葉から、法律は何の役にも立たない。強いものが結局勝ちだ、と言う話を聞いて、日本の政治家たちは、しばし呆然とします。いくら不平等条約が公法に違反していると、理論的な反論をしても、大国はそんなことは百も承知なのです。弱いからそんな不平等な条約を結ばされているのです。かつてのプロシアがそうだったように、悔しければ強くなれ。と言ったのです。

 冷静になってビスマルクの言葉を読んでみて下さい。この言葉は今のプーチンさんが言っている言葉ではありませんか?。つまり欧州の政治家はビスマルク以来180年、何も変わってはいないのです。弱いから取られる。弱いから虐げられる。そう言われた時に小国はどうしますか、未来永劫半植民地に甘んじますか?。少なくとも明治の日本はその道をたどらなかったのです。遣欧使節団以後、明治政府は富国強兵に突き進んだのです。

続く