手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

島田師のマジック 2

島田師のマジック 2

 

 1960年代の半ば、師はなんとかアメリカで活動したいと思い、メキシコまで出かけて、メキシコで活動を続け、アメリカ入国を狙っていました。然し、メキシコではいい仕事場が見つかりません。やむなく一度ヨーロッパに渡り、芸能事務所に売り込みに行きます。

 師の鳩出しは素晴らしいものでしたが、鳩出し全盛の時代に、ブロマイド写真を持ってロンドンや、パリの芸能事務所に売り込みに行っても、鳩が映っている写真を見ただけで、どこも買ってはくれませんでした。「鳩出しマジシャンはたくさんいるんだ。君は日本人?だったら何か日本的なマジックはやらないの」。

 そう言われてもいきなり和妻は出来ません。然し、「何か日本のマジック」、と言われたことが頭から離れません。ヨーロッパの町を歩いているときに、土産物屋で売っていた和傘を何本か買いました。これで何とかならないかという、一縷(いちる)の思いでした。この傘がのちに大成功の基になります。然し、今現実の舞台チャンスは手に入らず、旅の途中で要らぬ荷物を増やす結果にしかなりませんでした。そして、全く収穫のないまま、メキシコに戻ります。

 メキシコでは偶然にも、テレビのレギュラー番組がもらえ、毎週数分マジックをすることになりました。あれこれ見せているうちに自分のレパートリーは徐々になくなってしまいます。やむなく、以前に買った和傘をあれこれいじってみます。傘にゴムを付けて、自動に開くアイディアを思いつきます。

 傘が自動で開けば、傘の柄を持たなくても、轆轤(ろくろ=傘の軸)を握って空中で手を緩めれば、ぱっと傘が開くことを発見しました。「これならスライハンドで傘を出せるかも知れない」。すぐに日本から着物を取り寄せて、初めは三本の傘とシルク、ミリオンフラワーなどを組み合わせて3分の手順を作ります。

 それを、物は試しとテレビにかけると、ものすごい反響がありました。そこで和傘の第二弾を考えます。今度は鳩出しのオープニングに使っているトーチを持って出て来て、トーチが傘になると言うアイディアを考えました。そしてスライハンドで空中から次々に傘を出し、火の付いた骨の扇子を出したり、ひょっとこのお面の口からシルクが出て来たり、とにかく3分の手順を作ります。これも大成功です。更に、日本からあらゆる和の道具を仕入れます。如意独楽も取り入れて見たりしたそうです。

 このメキシコのテレビ番組はワイドショウで、昼の間、数時間続く番組でした。たまたまこの番組にアメリカからスライディーニが来て出演しました。スライディーニは師の和傘の手順を見て、「これは面白い、アメリカに持って行けばきっと受けるよ。ミルトラーセンが若いマジシャンを探しているから話してみるよ」。と言ってくれました。実際スライディーニはすぐにミルトに連絡を取り、この年、1071年。ロサンゼルスの劇場で開催されるイッツマジックに出演が決まります。

 これから師は、いくつか作った和傘の手順を一つにまとめ、お終いの三段傘までの大きな流れを作り上げます。

 

 基本的に師の手順は、鳩出しがベースになっています。時間的な進行は鳩出しそのものです。鳩の出る部分がそっくり和傘になっただけと言ってもいいでしょう。ベア出し(ダイレクトに鳩が出て来る技法)を傘に置き換えて、空中をつまむとパッと傘が咲きます。

 前半は次々と傘が出て、途中、扇子の色変わりから、火を扱った扇子のアクトがあり、そこから一転してひょっとこのお面で踊りを踊って、ミリオンフラワー。口からシルクを出し、シルクからまた傘を出す、そこから大きな傘が出て、それが三段傘につながって終わり。静の鳩出しに対して、動の和傘。洋に対して和。一見つながりがないように見えますが、形式は同じです。ついに師は、独自の世界を作り上げました。

 まったく手妻を演じたことのないマジシャンが良くここまで和の手順を作り上げたと感心します。しかも、この手順には、全く古典の手妻の要素がありません。傘の出し方も、形の取り方も、全く島田師のオリジナルです。後に手妻を知る人たちが、手妻の型を引き合いに出して、「体の動きが出来ていない、型が出来ていない、踊りが出来ていない」。などと批判するのは見当違いです。

 これは飽くまで師のオリジナルマジックです。師自身も、傘出しを、ジャパニーズスタイルマジックと称して、和妻、手妻とは言っていないのです。この傘手順がアメリカで大喝采で受け入れられたことは言うまでもありません。

 

 私は師の傘出しを1974年に、日劇の春の踊りのゲストショウで見ています。空中を掴むとパッと大きな傘が出て来るのが鮮烈で、これまでの手妻とは全く違います。まるで、四つ玉やシガレットを見慣れていた愛好家が、いきなり鳩出しを見たときに受けた様な強烈な印象と重なりました。

 その時私は大学生で、午前中のショウを見て、客席の入れ替えの時にはトイレに籠って、二回目のショウが始まると客席に戻って見ていました。結局一日中、日劇にいて、三回ショウを見続けました。

 ショウのメインは金井克子さんでしたが、一日三回ショウを見た後には、金井克子さんの「他人の二人」はそらで歌えるようになっていました。その話を昨年金井克子さんに、パーティーでお会いしたときに、お話しましたら大笑いされました。

 師のアクトの素晴らしさは、傘をスライハンドで出したことです。そして、テンポよく、ほとんど間を取ることなく、次々と傘で手順をまとめて行ったことです。空中から出した傘は傘が出たと言うよりも、暗闇の空に花火が咲いたかのように見えました。あの花火が瞬時に開いた印象は強烈でした。

 そもそもスライハンドの芸と言うものは握り拳よりも大きなものは出てこない芸なのです。それが、広げると80センチもある和傘がダイレクトに出て来るのですから、世界中のスライハンド愛好家の、概念を根底から覆してしまいました。たちまち師はマジック界のスターになって行きます。師は、鳩出しと傘出しの二作品を持つに至って、これ以降、テレビ、劇場と忙しく活動することになります。

 但し、師の心の中では、傘出しに関して疑念が生じるようになります。それは傘出しが持つマジックの限界であり、同時にスライハンドに対しての限界でもあったのです。

続く 

(1997年、NHKラジオ深夜便で、4日間にわたって放送された、島田晴夫師の半生を語った録音を張り付けておきます。無許可で出しましたので、すぐに消される可能性があります。興味の方はお早めにお聞きください。ラジオですから、声のみで映像はありません。5月5日のAM9時ごろに貼り付けます)。