手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

島田師のマジック 3

島田師のマジック 3

 

 師は、その後、知名度が上がると、仕事の規模が大きくなって行き、世間の要望に応えるために、ドラゴンイリュージョンを製作します。ドラゴンとは、傘出しの後、背後から大きな竜が現れ、般若の面をかぶった島田師が刀を抜いて竜と格闘し、竜を倒したとみるや、竜は島田師になり、面をかぶった島田師はディアナさんだったと言う、入れ替わりマジック。

 エキゾチックで大きな装置です。師はこの作品を気に入っていたようで、その後もたびたび演じていました。私は、このドラゴンイリュージョンを、昭和53(1978)年、日本テレビ開局25周年記念世界マジック大会で生を見ています。

 いろいろな意味でこの時が師のピークだったように思います。この時、コンテストの審査員に初代引田天功さんが出ていました。然し、ロビーでの一般客、或いは海外マジシャンからの人気は100%島田師に集中し、島田師の周囲には多くのファンが集まり、逆に天功さんは日本を代表するマジシャンでありながら、ソファーに一人座っていて、まったくローカルマジシャンのような扱いでした。

 長らく、国内では天功さんの人気の下で、日の目を見なかった師が、ようやく天功さんを超えた瞬間でした。この光景は象徴的でした。実際このころの天功さんは人気凋落が激しく、体力的にも、心筋梗塞を患い、かつての強気な姿は見えませんでした。天功さんは翌年1979年に45歳で亡くなります。

 ドラゴンは師にとって象徴的な作品となります。ドラゴンがもし優れたイリュージョンであったなら、その後の師の人生は、ちょうどランスバートンが鳩出しで人気を得たのち、イリュージョンを始めて成功して行ったように、イリュージョニストとしての地位を確立したでしょう。

 実際、その後、師はラスベガスでの5年間もの単独出演などを果たし、大きく活動して行きますが、単独公演では、当初、鳩出し、傘、ドラゴン、と師のマジックの全てを見せたのですが、途中からドラゴンは中止となり、内容はレビューショウに変わり、マジックは鳩と傘の二作のみとなってしまいます。この頃から色々な面で師の活動にブレーキがかかります。

 私はドラゴンを初めて見たときに、「島田さんはイリュージョンの人ではないなぁ」。と感じました。鳩や傘の手順ではきわめて精緻な作り込みをした人が、ドラゴンは大雑把であり、肝心のマジック部分に不思議さが感じられなかったのです。それでも当時の師には勢いがありましたから、マジックファンは熱狂していましたが、これでイリュージョンの道に進むのは難しいのではないか、と思いました。

 

 実際、人気の絶頂期を迎えた80年代に至って、師は迷走の時期に入ります。アメリカで様々な問題が出て来ます。ディアナとの離婚があり。キャッスルのビルラーセン夫妻との仲たがいが生じ、多くのアメリカのマジック関係者ともうまく行かなくなり、一時期は四面楚歌の状況に陥ります。

 無論、舞台活動はずっと続いていたのですが、その後、徐々に、師は、イリュージョンを諦めるようになり、鳩出しと傘に専念するようになります。更に師は、傘出しにも疑問を感じ始めたようです。

 この時期、頻繁に日本に訪れるようになり。私は、一度お会いしたことがありました。かつて、マジックキャッスルでお会いした時は、まるで帝王のような態度で、若手を見下して、天功さんが乗り移ったかのような印象を受けたのですが、この時期になると、有楽町の焼鳥屋の居酒屋で、人恋しさからか、ひたすら話し相手を求め、私のような者にまで、心の内を少しずつ吐露するようになりました。

 

 この頃、師は何を考えていたのかと推測すると、拡大して行く発想をやめて、全てを捨て去って、マジックの原点に戻ろうとしていたのではないかと思います。傘出しは、元々、海外で自分を売り出すための手段でした。からの手から大きな傘が出て来るのは素晴らしい発想だったのですが、手順として見せるとなると、たくさんの傘を隠しておかなければならず、演技に無理がかかります。そうなるとどうしてもスライハンドとしての完成度が落ちることになります。

 師が、大きな傘をダイレクトに出す手順を発表すると、世界中の若手マジシャンが、同様に大きな素材を、ただひたすら取り出すマジックをするようになります。ある意味、島田師の影響でスライハンドが崩れて行ったのです。すべて師の影響だとは言えませんが、それまでの地味なスライハンドが、大きな素材を出し、花火や、ドカンと言う効果音を使って、過剰にインパクトを追いかけることが流行し、それがためにスライハンドの寿命を縮めて行く結果になりました。

 これ以後、師は、傘をあまりやらなくなり、鳩出しに専念するようになります。そうした中、師の演技が変わったと言う話を頻繁に聞くようになります。どう変わったのかと聞いても、はっきりとした答えが聞けません。手順は変わっていないと言います。私に取っては大変に興味です。そこで、

 平成6(1994)年、SAMジャパンのマジックコンベンション九州大会に師を招き、演技を拝見しました。その演技は、ほとんど昔見た手順と変わりはありませんでした。然し、若いころと違い、奇抜さやインパクトを追いかけることをしなくなり、今まで、自身のしてきたことを述懐し、まるで、一つ一つの演技を自分自身で楽しんでいるかのような演技になっていました。雰囲気全体は一層彫が深くなり、テンポはゆっくりになり、マジックをしつつもマジック的な要素は消え去っていました。

 拍手を取るための、師独特の、あくの強い表情は消え失せ、何から何まで自然に流れて行きます。カードの連続出しは、晩秋の落ち葉のようで、物の哀れを感じました。

 気付くと九州の観客はみんな涙を流して見ています。司会のマーカテンドーさんまでもが涙で顔がくしゃくしゃでした。驚きました、鳩とカードを出す、ただそれだけのマジックにみんな涙を流しているのです。私は「あぁ、島田さんは一格上の人になったんだなぁ」。と思いました。

 師はこのころ、頻繁に芸術家になりたい。と言っていました。全てを捨て去って、師はようやく自分自身が成りたいものになったのです。それは45歳で亡くなった引田天功には生涯到達できなかった世界です。喜びも悲しみも、欲も名誉もすべて捨て去った先に残った師の根源の芸術だったのです。

島田師のマジック終わり。

 

1997年に、NHKラジオ深夜便に収録された、島田師の半生を語ったインタビューを張り付けておきます。

 

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