手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

芝居

芝居

 

 昨晩は私のマジック教室に通う古林一誠さんが主演する、ジュセッペと言う芝居を見に、大岡山劇場まで伺いました。古林さんはお座敷コブラと言う劇団に所属しているそうで、お座敷コブラは人気の劇団なんだそうです。

 年に一二度しか公演しないのですが、公演するたび、5日間くらい続け、毎回満員の状況だそうです。

 大岡山劇場は、駅にほど近く、交通の便は良いところですが、キャパ数は60人程度でしょうか。ここで数日公演しても、稽古日数や、道具費用、人件費を考えると、満員になっても、赤字の運営でしょう。

 そうなのです。通常の芝居や、音楽活動は、やればやるほど赤字なのです。彼らはそれを承知で活動しているのです。

 マジックが、多少なりともギャラが発生して、あちこちの店でマジックを見せればとにかく生活して行けるというのとは随分違う生き方なのです。

 しかも彼らは稽古日数に半端なく時間をかけます。マジシャンが数日稽古して舞台にかけるのとはわけが違います。照明も音響も相当に細かく作り込んでいます。セリフも、考えつくされて語っていますし、テーマもしっかり作られています。

 恐らく彼らが通常のマジックショウを見たなら、芸能とは思わないでしょう。素人のおふざけ芸に見えるでしょう。細部まで考えられた芸能とマジックとは比較にならないのです。

 しかも演劇は一人芸ではなく、数人(時には数十人)の演者とスタッフによる総合的な芸術ですから、うまく出来上がったときの効果は絶大なものがあります。そうなら、演劇はマジックと比べるべくもなく、巨大な芸術を作り上げているのか、と言うと、必ずしもそうではないのです。

 

 話を戻して、昨晩のお芝居をお話ししましょう。ジュセッペ爺さんはピノキオを作り上げました。そのピノキオに人工知能を備え付けようと研究をします。ただ単純に言葉をしゃべる機械ではなく、自分が判断をして受け答えをするロボットを作ろうとします。どうしたら自分の判断で言葉を話すのかを、言葉の話せるようになったピノキオと語り合います。なぜ自分で判断が出来ないのか、なぜ感情を伝えられないのか、感情とは何か、心の発露とは何か、ピノキオに対して疑問を投げかけます。然し、ジュセッペ爺さんは志し半ばで寿命を終えてしまいます。そして、死後、ジュセッペ爺さんは、霊となってピノキオに自ら判断を立てることを教え続けます。

 単純な木工細工のピノキオに、人工知能を植え付けるというアイディアが非凡ですし、そこに知能とは何かを制作者と非制作者が語り合うところが非凡です。話は面白く、深まりを見せつつ、ギャグで筋が難解になることを避けています。

 舞台は、古林さんのジュセッペ爺さんとピノキオ役の役者二人だけ、背景は爺さんの古いアトリエのみ、初めから終いまで二人の会話劇に終始します。

 難しいテーマをギャグを交えて面白く発展させると言うパターンは、ベケットの「ゴドーを待ちながら」を思わせます。新劇の役者はこうしたタイプの演劇が大好きです。

 セリフが複雑ですし、やたらと多いものだから役者にとってはやり甲斐があるでしょう。然しながら、芝居が進行して行くに連れ、どうも私にはクロースアップマジシャンの中で、時折見かける、観客に、ひたすらこれでもかこれでもかとカード当てを見せ続けている状況と重なって見えて来ます。

 

 カード当てとか、預言って、そんなに人が争って見たいと思うほど、お客様にとって魅力ある世界でしょうか。マジシャンの前に座ったら、まるで定食の前妻の如く、小鉢に数点サラダや魚介のカルパッチョが並ぶように、頼みもしないのに、次々とカードが当たり、預言がされます。

 仮にそれらがマジックとして成り立っていて、不思議であったとしても、それほどたくさんのカード当てをそもそも観客が望んでいるでしょうか。予言がわずか15分の演技の中に二度も三度も出て来ることの不自然さにマジシャンは気付かないのでしょうか。

 通常、人として生きていると、預言に出くわすことはせいぜい生涯に一度あるかないかでしょう。それがレストランで見たマジックには、15分に3度もの予言が出て来たりします。それが自然な行いでしょうか。

 マジシャンは自分が出来ることに対して抑制がないのでしょう。なぜマジシャンは次から次とカードを引かせて当てて行くのでしょうか。

 それは自分が見せたいのです。カードを当てているとき、預言を封筒から出して広げた時だけが自分がマジシャンであることを証明しているからです。マジックを演じていないと、マジシャンでなくなってしまうのです。

 その演技は理性でもなく、知性でもないのです。それは生理なのでしょう。ちょうどお母さんが子供に、同じ小言を何十分も言い続ける、あの姿と同じとです。自分より弱い者を狙って自分が言いたいことを言い続けて一種のカタルシスに陥る、あれです。

 生理でもの言っているのですから、言葉に意味はありません。言われた子供も、生活の面倒を見てもらっているからおとなしく聞いているのであって、内容なんか考えもしません。

 親と子供には利害関係があるため小言も成り立ちますが、金を払って食事に来たお客様に生理でカード当てを見せられたらたまったものではありません。

 その結果がマジシャンに与えられている地位なのです。何もこのことはマジシャンに限ったことではありません。クラシック音楽の作曲家が、人の役に立つような音楽を作っているのかどうか。未だ日本でシベリウスや、スメタナのような、聞けば国民が涙を流すような音楽を作った人が一人でもあるのかどうか。映画も同じ、演劇も同じです。政治も同じです。本当に人の役に立っている政治家が何人いますか。なかなか自分の世界を超えて人の役に立つ人が出ないのはなぜなのか。

 国が応援しないから、国民がバカだから、いや、私はそうではないと思います。演者が目の前の観客を考えていないからだと思います。百見せるマジックを一つだけで語れたなら、それだけで素晴らしい芸術になるのに。

 昨晩の演劇は発想は面白いものでした。内容も素晴らしいと思いました。然し見る立場にすればそれほど多くのセリフは必要ないと思います。

 もっと簡潔に、もっとわかりやすく、あの大阪のOS劇場の役者さんのように、ぞろりとした着物を着て、波しぶきの絵が裾に書いてあって、付け睫毛をしたお兄さんが刀を抜いてバッタバッタと悪人を切り倒す芝居の方が、観客にはわかりやすく、熱狂するのです。

「えーっ、藤山さん。それを求めますか?」と問われるかも知れません。あえて申し上げます。「そこに真実があります」。もっとくだらなくていいのです、しかし真剣にくだらない芝居をする人を観客は求めているのです。

続く