手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シトロエン一代記 1

シトロエン一代記 1

 

 フランスの自動車メーカーの初代経営者、アンドレシトローエンは、実に個性的な人柄と独創的なアイディアの持ち主で、彼の個人的な才能が一代で巨大自動車メーカーを作り上げました。

 父親はポーランド人、母親はオランダ人、ユダヤ系の家系で、父親は宝石の職人をしていたそうです。パリにある国立工科大学に在学し、技術者の道を考えていたところ、親戚の町工場の経営者が変わった発明をしたと言う噂を聞いて、工場を訪ねると、そこで見たものは、奇妙な歯車でした。

 歯車と言うのは、円形の金属の縁を何十等分かに歯を立てて、溝を削り落として、刻みを入れるものですが、この溝がまっすぐでなく、全て山形に折れ曲がっていて、歯の面が突の文字になっています。

 なぜこんな奇妙な歯車を作ったのかと尋ねると、歯車同士は平たんなところで回す分には問題なく作動しますが、例えば船舶のような、船体自体が動くところで歯車を回すと、何かのショックがあると歯車が左右にずれて外れてしまうことがあります。大きな歯車だと一度ずれると船内でつなぐことが難しく、船はそのまま航行不可能になります。

 ところがこの山歯(やまば)の歯車は左右のずれに強く、動力を無駄なく伝えるため効率がいいことが分かりました。するとシトローエンはすぐに親戚のアイディアの権利を買取ります。

 その資金の出どころは不明です。多分親を説得したのでしょう。まだ学生であるにもかかわらず、早速、このアイディアを船舶会社やフランス海軍に売り込みをかけます。

 山歯(やまば)の歯車の素晴らしさはすぐに評価され、大量発注を受けてシトローエンは一躍フランスの経営者の一人となり大成功をおさめます。1905年、シトローエン27歳でした。

 彼はこの時の成功を忘れず、後年、自動車会社を設立したときに会社のマークとして、ダブルシェブロン(二つの山歯)のマークを考え出します。今日のシトロエンのとがった山歯のマークがそれです。

 彼は大きな収入を得て、その後ひたすら研究に没頭したかと言うと、そうではなく、ナイトクラブや社交界に入り浸り、遊び惚(ほう)けていました。この姿を見たフランスの多くの経営者は、「あいつは一発屋で終わる」。と見ていたようです。

 シトローエンは当時のアメリカの自動車メーカー‐フォードの流れ作業による自動車生産に着目していました。当時の欧州の工場は、自動車一台作るにも、数人がチームを作って、初めから終いまでを責任を持って作り上げていました。戦艦を作るのも似たようなやり方でした。

 然し、これでは注文製作と同じで手間暇がかかります。しかも職人の技量の差で製品の良し悪しがはっきり出てしまいます。

 ネジやリペットを打つのでも、職人の勘で適当な位置に穴を開け、ネジを打ち込んでいたのです。一台一台ネジの位置もネジの数も違っていたのです。然し、もし、ネジ位置が初めから決まった位置にあけられていて、その穴にネジを打ち込むのであれば誰でも作れて、製作スピードは驚異的に早まります。

 フォード車がしたことは、穴をあける担当は穴専門に開け、ネジを打ち込む担当はネジ打ち込みに専念したのです。

こうすることで一回一回ドリルとドライバーを持ち換えて作業することなく効率よく作業が出来るようになりました。

 しかも製品はすべて共通の規格のものを採用しました。こうすることで誰が組み立てても同じクオリティで製品が出来るようになったのです。このため、フォードの車はアメリカ中のどこの修理工場に持ち込んでも修理可能となったのです。アメリカのような巨大な国ではこうした互換性を備えた製品が支持されたことは当然でした。

 シトローエンはフォードの合理的な経営の影響を受け、セーヌ川畔に流れ作業の工場をこしらえます。

 

 するとおりしも第一次世界大戦が勃発します。フランスはドイツに苦戦をします。そこでシトローエン陸軍省に乗り込み、「私の新工場で砲弾を作れば一日5万発製造して見せる」。と豪語します。軍は当初その言葉を俄に信用できませんでしたが、彼の工場を見て納得します。

 しかも、シトローエンは、「私の工場は特別な技術は必要としない。亭主が戦争に出ていて収入を失っている兵士の妻たちでも出来る。彼女らを雇い入れれば、人手不足は解消し、雇用が増えて一石二鳥ではないか」。

 と、とんでもないアイディアを出します。実際、工場内に託児所まで設けて、兵士の妻たちを雇い入れ、女性に玉を作らせて、女性の生活を助けると言うアイディアを考え出します。これには陸軍も頭を下げ、シトローエンに大砲の玉の製造を依頼します。

 お陰で世界大戦中の4年間で巨万の富を得たシトローエンはフランス中の経営者の羨望の的になります。そして以前にもまして夜遊びが激しくなります。

 

 大戦後に、シトローエンは満を持しての自動車製造を始めます。彼が尊敬してやまないアメリカのヘンリーフォードに憧れ、フォードが作ったT型フォードをフランス式に製造したいと考えました。

 当時のフランスにはたくさんの自動車メーカーがあり、そこでは貴族や経営者相手の注文によって自動車を製作していたのです。いわば当時の自動車は、馬車の時代と何ら変化はなく、全くの手作りで、その価格は家一軒に匹敵するもので、とても庶民には買えませんでした。

 シトローエンは、せめて中産階級が買えるくらいの製品を出したいと考え、自慢の流れ作業の工場をさらに大きく作り替え、自動車生産を始めます。

 シトローエンは工科大学を卒業していますが、彼が自動車の設計をしたことはなく、有能な技術者を他社から引き抜いて、彼らに製作を任せます。シトローエンはむしろ、製品を売り込む才能に長けた人で、この先も彼の突飛なアイディアで会社は大成功をおさめます。

 とにかくシトローエン社はA型という車を発表します。1300CCの4人乗り、どうと言って目立った長所のない車ですが、価格の安さが大衆に受けて、初年度、二年目を合わせて二万台の製造を達成します。今、二年で二万台の車製造は大したものではありませんが、貴族だけを相手にしていた時代に、二万台と言う個数は常識を超えた台数だったのです。またまたシトローエンは大成功をおさめます。

続く