手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シトロエン一代記 3

シトロエン一代記 3

 

 さて、お約束のシトロエン一代記を完結させなければなりません。私がなぜアンドレシトローエンのことを調べ続けたのかと言うと、この人の一生は、芸人の生き方、或いは、マジシャンの生き方に非常によく似ているからなのです。

 彼はまず初めに国立工科大学に入ります。技術者の人生としては好スタートです。然し、人は、工科大学を出たから必ず成功すると言うものではありません。

 彼は、親戚の経営する鉄工所で山歯の歯車と出会います。これは大発明でした。彼はいち早くこの権利を手に入れ、船舶会社に売り込んで若くして巨万の財産を築きます。これが最初の成功でした。人の持っていない技術や、アイディアを素早く手にいれ社会に売り込むことこそマジシャンの成功のチャンスなのです。

 次に、ヘンリーフォードの流れ作業に傾倒して、自分も自動車会社を作ろうと考えます。実際工場まで作るのですが、ここで第一次世界大戦が勃発します。彼は急遽、自動車作りを止めて、大砲の玉を流れ作業で作ろうと発案します。そしてそのアイディアを陸軍に売り込み、予算を獲得します。

 時代を見て、今、何が世の中に必要かを知った上で、柔軟に形を変えて行く。これも芸能で生きる者には大切な生き方です。

 その後、世界大戦が終わって、軍需産業は大不況に陥りますが、それを見越して、すぐさま当初の自動車産業に切り替えます。そしてとにかく安い自動車を作って販売し、大当たりをします。

 当初のシトロエン社の車は、技術的にはそう大したものではなかったのですが、価格の安さが革命的で、一気に売り上げを伸ばします。ここも芸能で生きる者は心しなければならないことです。技術のレベルが高いことよりも、今求めているものを低価格で出すことの方が、多くのお客様のニーズを掴めるのです。

 そして、エッフェル塔を使ったネオンサイン、ミニカーの販売、サハラ砂漠縦断レース、など。奇抜な宣伝方法で人目を惹き、常に話題を振り撒きました。これも芸能で生きる者は心しなければならないことです。芸能だ、芸術だと言っても、showと言う言葉の意味は見せ物です。常に珍奇で変化のあるものを提供し続けない限り、人を集めることは出来ないのです。

 アンドレシトローエンは誰よりもそれを知っていたのです。さて、ここまでが一代記の1と2でお話ししてきたことです。

 

 自動車作りと言うのは全く矛盾の塊です。お客様にどんな車を買いたいかと問えば、燃費のいい車で安全な車、室内は広く、外観は小さく、取り回しのいい車、などと言います。

 燃費を良くするなら、大きな車は無理です。然し、安全な車となると、鋼板や支柱は厚くしなければならず、ボディは重量が増えます。重くなれば燃費は悪くなります。

 大きな車は日本のような狭い道路では取り回しが悪く、接触しやすくなります。そうなら小さな車がいいに決まっています。然し、小さな車は室内が狭くなります。室内は広く、車は小さく、燃費が良くて、安全性が高い、おまけにスピードが出る車となると、もうそれは絶対不可能な要求なのです。

 ところが1930年くらいからアンドレシトローエンは、その不可能な要求を真剣に考え始めます。自動車の幅は他社並みで、それでいて室内が思い切り広い車を作るにはどうしたらいいか。

 そこから出した答えがFF車(前輪駆動車)だったのです。このアイディア自体はシトロエンのオリジナルではありません。過去に考えた会社があったのです。然し、前輪駆動と言う考えは問題が山積していたのです。

 通常自動車は、ボンネットにエンジンがあり、エンジンで回転させた動力を、シャフトを使って、後輪に持って行き、後輪を回転させます。自動車の前輪は、ハンドル操作によって、左右に移動するだけで自走しません。

 このやり方だと、自動車の中心に長い土手が出来て、左右の座席を土手で分断します。土手の中にはシャフトが通っています。これによって自動車の居住空間は狭められます。

 前輪駆動は、ボンネットのエンジンの回転を直接前輪の回転につなげるため、長いシャフトがいりません。その分室内は大幅に広くなります。ところが、前輪を回転させるために、ハンドル操作を車輪に伝えるのは思いっきり負荷がかかります。動いている車をハンドルで方向を変えることは至難の業なのです。今日のようにパワーステアリング装置が付いていたら何ら問題はないのですが、1930年当時それは無理だったのです。

 そこでハンドルのギアチェンジを考えたり、タイヤを細くしたり、ハンドルそのものを大きくしたりして、随分工夫を凝らします。その間も開発費に費用がかさみ、いつしかシトロエン車は大きな負債を抱えるようになります。然しシトローエンは、全く意に介しません。いいものを作るために没頭します。

 それがある日、会社に銀行が入り込むことになり、たちまち社長が解任されます。創立者であるアンドレシトローエンは会社を追われます。前輪駆動の成功がもうそこまで来ているのに、会社を去らなければならなかったシトローエンは無念だったでしょう。

  せめてもの慰めは、シトロエン車を引き受けたのは、タイヤ会社のミシュラン社でした。ミシュランシトローエンの親友で、誰よりもシトローエンの才能を評価していました。

 シトローエンは、失意のうちにスイスの別荘に籠り、そこで胃がんを発症し。1935年に亡くなります。

 

 ところで、前輪駆動車は、フランス語のトラクシオンアバン

(トラクシオン=駆動、アバン=前)、の名称で、その後、世界中で大ヒットとなります。他社の車よりも断然居住空間が広く、前輪駆動のため、鼻が長く、後ろがすとんと切り落とされている、奇妙な車ですが、これが個性となって大ヒットします。また正面には大きなダブルシェブロン(二つの山歯=シトロエンのエンブレム)が飾られていて、余りに大きなエンブレムであるためにこれもまた人気になります。

 但し、トラクシオンアバンが世界中を走る姿をアンドレシトローエンは見ることが出来ませんでした。それでも彼の意志である、独創性は、その後次々とシトロエン社がとんでもない車を発表することで、世界中の話題を浚って行きます。

 自動車の技術発展に心血を注ぎ、やがて経営が見えなくなって倒産する姿は、マジシャンの生き方とまた重なって映ります。私としても決して他人ごとではありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

と名乗り、