手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シトロエン一代記 2

シトロエン一代記 2

 

 1919年、シトロエンはA型を発表して瞬く間に大ヒットをし、ルノープジョーなどと並んで一躍フランスを代表する自動車メーカーに成長しました。ところが、販売して気付いたのですが、余りに安価に価格設定したため、少しも利益が出なかったのです。

 多くの人が買える自動車を作りたい、と言う理想が先走ってしまい、経営的には利益が出なかったのです。しかし、他社より遥かに安い車を作ったことでその名は世間の話題となり、宣伝効果としては大成功をします。

 そこで、すぐに1921年にB2を発表し、これも爆発的なヒットをします。今度はしっかり原価計算をして利益が出ました。

 その成功に気を良くしたシトローエンは、奇抜な宣伝を次々に考えます。先ず子供のためにミニカーを販売します。今ではミニカーは何でもないおもちゃですが、自動車を精密に小型に作ったおもちゃはシトローエンが考え出したもので、発売後爆発的な人気を呼びます。以後新車が出るたびに種類を増やして子供たちにシトロエンを認知させて行きます。

 社名をシトローエンから、シトロエンに変更します。シトロエンはシトロン(柑橘系の果物)、に似た響きがあって覚えやすいと言うことでシトロエンと言う社名にします。後には、実際に黄色いボディの車まで作って、シトロンそのものになって販売します。それまでの車は黒ばかりだったものが、黄色い車が出たため町の雰囲気まで一変し、一躍人気になります。

 シトローエンのアイディアは益々冴えわたり、飛行機でCitroënの文字を空に書くことを考えます。こうした広告は今までになく、独創的だったためにこれも話題になります。

 さらにはエッフェル塔を広告塔にすることを思いつき、ネオンサインでCitroënとものすごい太い文字で縦書きのアルファベットのネオンを出しました。この宣伝効果は絶大でした。

 夜にパリの街を歩いていると、どこにいてもシトロエンの文字がキラキラ輝いているのですから。

 実際、リンドバークが飛行機で大西洋横断をした時に、闇夜の中で有視界でパリの街を見つけ出します。そこで有名なセリフ、「翼よあれがパリの灯だ」。と言った話は彼の伝記にも書かれていますが、このリンドバークの言った、「パリの灯」と言うのは間違いなくエッフェル塔に輝くシトロエンの文字だったのです。

 

 更に1925年から、自社の車の耐久性のすばらしさを宣伝するために、サファリラリーを開催します。アフリカのサハラ砂漠を縦断する企画です。砂漠を当時の自動車で縦断すると言うことは無謀な行為であって、誰も達成した人はありません。

 今日までも続いているサファリラリーの発案者はシトローエンです。現代の考えで見たならそう無理な話ではありませんが、ガソリンスタンドもなく、修理工場もなく、砂ばかりの土地で灼熱の太陽のもと、どうやって未成熟だった当時の自動車が砂漠の縦断を果たすのか、それは困難の連続だったのです。それをあえてシトロエンはやってのけたのです。

 この冒険は予想以上の効果を生み、世界中の自動車愛好家から信頼を勝ち取り、縦断を成し遂げたことが会社の性能の高さを実践で示すことになったのです。

 以後、シトロエン社は、様々なラリーを企画して、ゴビ砂漠を超えて、北京まで行くラリーまでやって見せたのです。

 このサファリラリーは今も続けられています。自動車の耐久レースと言う点ではとても重要なラリーなのです。シトローエンの発想が今も続いているのです。

 

 この間にも車は大改良がされて、ボディ全体が一枚の鋼板で成形される車を発表します。これは今では当たり前のことですが、昔の車は、エンジンを納めている鼻先の部分と、人の乗る客車部分は別に作られていました。

 つまり当時の自動車はまだ馬車の形から変化をしていなかったのです。それを鋼板の一体型のボディ。つまり今日の自動車の形に改めています。当時としては画期的な自動車でした。

 さらに、車全体を一切木製を使わず鉄のみのボディを達成しています。現代の感覚からすれば、そんなことは当たり前と考えてしまいますが、床から天井から細部の部品まで鋼板を使い、強度を増した設計になっています。つまり1920年代以降に車は急激に今日の形になって行きます。アンドレシトローエンと言う人は、今日でいうならスティーブンジョブスのような、先駆者であり、経営者として、科学者としての先端を行く人として欧州の中で大いに持てはやされたのです。

 第二次世界大戦前までのフランスでは、約三分の一の自動車がシトロエンで、会社としては欧州最大の自動車メーカーだったのです。世界的に見ても、生産量第一位はアメリカのフォード車で、二位がシトロエンだったのです。今日ドイツ車の影に隠れて、冴えなくなってしまったフランス車の現状を見ると隔世の感があります。

 

 彼は大変なギャンブル好きで、しかもアルコール好き、ナイトクラブにはしょっちゅう出入りして、半端なく遊び続けました。こう書くと成り上がりのスケベ親父の様に思われるかもしれません実際そういう面も多々あったようです。

 然し、同時にシトローエンは、作曲家のモーリスラベルの良きパトロンでもあったのです。当時すでにフランスを代表する作曲家として名を成していたラベルですが、彼は極度の人嫌いで、社交界の類には一切出て来ることはありませんでした。

 彼は身長の低いことに強い劣等感を抱いていて、立って記念写真を撮ることを嫌がりました。パーティーの中にいると一人だけ埋没してしまうため、パーティーも嫌いでした。そのためほとんど外出をしなかったのです。

 然し、人の心を掴むことに長けていたシトローエンとは馬が合い、度々彼のパーティーには出席したようです。シトローエンとラベルの不思議なつながりは長く続きました。

 

 ここまで私が如何にシトロエンが先進的な自動車作りをしてきたかを熱を込めて語りましたが、この先もまだまだ世界に先駆けて独創的なアイディアを発表して行きます。

 ところが、余りに独創的なため、開発費に費用がかかり過ぎ、いつしかシトロエンは儲かっていながら莫大な開発費によって大きな負債を抱え、身動きが出来なくなって行きます。

 その最たるものがトラクシオンアバン(前輪駆動)でした。彼の自動車作りの最大の事業がトラクシオンアバンだったのですが、同時にこの事業が彼の人生を終わらせる結果となりました。トラクシオンアバンとは何か、その話はまた明日。

続く