手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

謎の人 2

謎の人 2

 

 そもそもこの単行本「辻政信の真実」の帯タイトルが、「神」か「悪魔か」と書かれています。本の主役がいきなり悪魔扱いです。帯タイトルは、出版社が付ける場合が多く、人目を引くために強烈な単語を用いるのですが、戦後70数年経ってもいまだに敵の多い辻に批判的なタイトルです。

 然し、著者はかなりの部分で辻を弁護しています。私は年代ごとに、問題を起こした事件と照会しつつ著作を読んでみました。私の感想では、いかに著者が辻を弁護しようと、やはり辻の罪は重い思います。

 昭和の戦争小説を書いた半藤利一や、山本七平などの著作を読むと、二人は辻を蛇蝎のごとく嫌っています。山本は実際、一兵士として、辻の立てた作戦のもとで戦っています。兵士から見た参謀の辻は、傍若無人な越権行為、独断専行な作戦の進め方、何か言われれば大声で絶叫して相手をねじ伏せる感情的な態度。無謀としか思えない自説の正統を叫び続ける辻の態度をはっきり否定しています。

 ところが、当の陸軍本部は辻に対して、「頼もしい」「有能である」。と、全く真逆な評価を下し、次々に転身(出世)させ重用します。こうした軍部や、辻に対して山本は怒り心頭です。

 

マレー戦の成功とその闇

 ノモンハン事件は軍部に隠蔽され、その後の責任はうやむやになって、辻は、第11軍に回され、中支(中国)渓口に転身します。ここで軍紀係を担当し、上司をビシビシ取り締まって、酒色にふける上司を降格させたりします。これによって兵士の間で辻は絶大な人気を得ます。

 ほどなく昭和16年、マレー戦の担当になり、本来の参謀に復帰、シンガポール攻略に没頭します。実際作戦立案に辻は天才的な発想を連発します。シンガポールは当時イギリスのアジアにおける最大拠点でした。ここを攻め落とすために、日本はマレー半島に大軍を送り、南下させるプランを立てました。無論イギリスはそれを察知しますが、マレー半島は、日本軍の進駐した位置からシンガポールまでは1000㎞もあり、しかも密林が海岸まで迫り、そこを大群が南下するとなると数か月はかかると英国は予想していたのですが、日本軍は何と数十日で到達します。

 有名な、自転車に乗って密林を進む日本軍の攻略方法は画期的なもので、たちまちシンガポールに迫り、英国軍と対峙します。この時、辻は、またも実戦に乗り出し、実際の指揮官を差し置いて独断専行の戦いをします。

 全軍指揮をしていた、第25軍の司令官、山下奉文(ともゆき)中将は、辻の勇敢な態度は認めつつも、彼の行動を危惧し、「この男、我意強く、少才に長け、所謂(いわゆる)狡(こす)き男、国家に大を成すに足らざる小人」と、最低の評価を下しています。

 実際山下にとって、この後、辻が配下にいたことがその人生の命取りとなります。シンガポールの攻略は、劇的な戦果を挙げてイギリス軍を殲滅します。これにより数百年にわたって欧米の侵略を受けていたアジアの人々は日本に敬意を抱きます。

 辻は新聞社の取材に応じて弁舌さわやかに戦記を語ります。頭脳明晰な辻の戦記は大人気で、新聞社は辻を戦争の神様と持ち上げます。

 ところがここで辻は大きなミスを犯します。占領したシンガポールの市民の中で、スパイを見つけ出し、すべてを処刑すると言う暴挙に出ます。

 シンガポールは中国系移民の多い国で、しかも、富裕な中国人が多かったのです。彼らは、本国の中国が日本軍に攻められるのを見て、蒋介石政府に支援金や物資を送りました。これを「援蒋ルート」と呼び、日本は、これを断ち切ろうと躍起になります。

 辻は援蒋ルートの根がシンガポールにあると見て、華僑を探し出し処刑するように命じます。然し、実際、誰が援蒋ルートの協力者であるかは外見からは分かりません。言ってみれば、シンガポールの華僑すべてが中国の先行きを心配し、援蒋者となっていたはずです。それを辻は、見つけ次第処刑しろと、これも独断で命令を下します。

 命を受けた河村参郎昭南(湘南=シンガポールが占領されて昭南市になった)警備隊指揮官は、「誰がスパイであるか特定できない」。とスパイ狩りに反対して、再三抗議をしましたが、聞き入れられず、やむなく命令のままにスパイ狩りをする羽目になりました。

 それが終戦時に、シンガポール市民を虐殺したことになり、河村は絞首刑になりました。更にそれを指示したとされた山下大将も絞首刑になっています。下士官である河村はむしろ虐殺に反対していたにも関わらず、戦後のどさくさで、こまかな詮議もされず河村は絞首刑、その時、辻は既にシンガポールにはいなかったため、全く裁判にもなっていません。

 ここでも辻は自分が下した命令で日本の将官を犠牲にしています。シンガポール攻略は歴史的な快挙ですが、華僑の虐殺により日本はあらぬ汚名を着せられるようになりました。戦いのたびに辻は成功と、闇を作り出し、成功を引っ提げて次の戦地に飛んで行き、闇の部分は残された士官に罪をかぶせて行きます。

 

フィリピンの死のバターン行進

 この後、辻はフィリピンに渡ります。フィリピンはバターン半島に籠る米軍を第14軍の本間中将は攻めあぐねていましたが、辻がやって来て劇的な戦果でアメリカに勝利します。

 そして大量の捕虜を受け入れることになりますが、当時の日本軍には、数万の単位の捕虜を受け入れる施設がありません。対策を苦慮しているうちに、日本から捕虜を射殺しろという命令が下ります。それを伝達して回ったのは辻で、実際、辻の命令を受けて、アメリカ兵の捕虜を殺害した士官もいたのです。

 然し、捕虜の殺害は犯罪です。おかしいとする意見が出て、調べてみると、日本からそんな命令は出ていないことが判明。辻の独断だったことがわかりました。この件も、戦後、本間雅晴中将ほか、手を下した下士官が、責任を問われ絞首刑になっています。その時には辻はもうフィリピンにいなかったのです。

 

ガダルカナルの戦い

 ガダルカナルの戦いでは一層悲惨な事件が起こっています。そもそもアメリカ軍の数を把握しないまま、500人1000人と言う小さな部隊を送り込み、その都度圧倒的なアメリカ軍の火力に殲滅されて行きます。明らかに戦略が間違っているにもかかわらず、辻は支隊の責任者や、総責任者の川口少将を責め立てます。

 特に、指揮官である川口清健少将との対立はすさまじく、辻は作戦中も川口を罷免しようと躍起になったようです。この争いは戦後も尾を引き、川口は辻の悪魔説の先鋒となって日本中で講演活動までして辻を責めます。

続く