手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

謎の人 1

謎の人 1

 

 毎年終戦記念日に近づくと、太平洋戦争に関連した書籍がたくさん出ます。私は昭和29年生まれですから、戦争は知りません。然し、朝に晩に、私の父母は戦争の時の話をしていましたから、知識としては多少知っていました。

 また、学校の先生の大半は軍隊に行き、厳しい訓練や戦地でのつらい体験を毎日のように生徒たちに話ていました。授業の合間に話す話は戦争の話ばかりでした。その時代は体罰も平気で生徒を平手打ちすることなどしょっちゅうでした。

 

 7月に高円寺の書店で、「辻政信の真実」(前田啓介著 小学館)を買いました。辻は太平洋戦争物を読むと、昔から必ず出て来る名前です。それもものすごく評判の悪い人です。ある人に言わせれば。「最大の戦争犯罪者」と言い、またある人は「帝国陸軍参謀が生んだ最高の知恵者」「戦争の神様」と言います。

 その辻政信の一生を評伝としてまとめた労作です。先月の末に読み終えて、さて、辻と言う人はどんな人だったのか、と考えて見ると、なかなか単純に善悪で判断できない人だと感じました。つまりよくわからない人なのです。

 

 著者は、生まれ故郷の石川県今立村まで足を運び、辻の家族、親戚、友人などから聞き書きをし、辻を調べています。辻の家は炭焼きを生業とし、貧しい家庭に生まれます。

 小学校に通うときにも、炭俵を担ぎ、村まで運び、それから学校に通い、帰りは必要な生活物資を買い、それを背負って家まで帰ったそうです。まるで二宮金次郎のような生活です。

 本来なら義務教育を卒業してすぐに働きに出る予定だったものが、稀に見る秀才であったために、学校の勧めで、陸軍幼年学校に進みます。その後陸軍大学に進み、卒業生の中でも恩賜の軍刀天皇陛下から下賜された軍刀、卒業生の中でも毎年数人と言われるエリート)をもらうほどの優秀な成績で卒業します。

 

 卒業後、昭和7年に陸軍参謀本部に入ります。当時の課長は東条英機でした。東条は能吏ではありましたが、辻とは考え方が合わなかったようです。

 東条のライバルに石原莞爾がいて、石原は昭和5年に、満州国を建国した立案者として、陸軍参謀内部で絶大な信頼を得ていました。後に東条との争いで左遷されますが、野心ある辻にとっては神とも崇める存在だったようで、度々石原のもとを訪ねて強い影響を受けるようになります。

 石原との出会いによって、その後の辻の活動は石原思想の実践者となって、戦地で戦いをするようになります。入省して早々に上海事変があり、局地戦に参加します。辻は参謀であるにもかかわらず、実践で兵を指揮することを望み、市街戦に出て中国兵と戦います。 

 この時、銃弾が足のすねを貫通し負傷しますが、応急処置をしてすぐに戦線に戻り、怪我のまま戦います。その姿が人間業を超えているとみられ、事変後、新聞記者の取材を受け新聞で体験記を伝え、その後、講演をするにあたって、話術のうまい辻は自己宣伝(決して自己宣伝ではなかったようですが)が巧みで、一躍人気者になります。

 辻の話術の巧みさと、文章能力の高さはその後もずっと辻の活動に生かされ、辻は参謀本部内での階級以上に大きく評価されるようになります。

 そして、満州国関東軍に所属します。石原の思想を忠実に反映させて栄転したわけです。そして関東軍の中でも非常に知名度の高い下士官として活動します。

 ここまでは優れた活動を見せていますが、この後、関東軍の中で大きな問題を残します。

 

 辻は、満州の国境を眺め、西部の国境が曖昧であることに気付きます。蒙古近くのソ連と日本の国境が不明確だったのです。

 辻は遠からずここからソ連が攻めて来る、と進言し、兵を配備し、ソ連と対峙したほうが良いとプランを立てます。

 それが後のノモンハン事件に発展します。ノモンハン事件はその後もずっと軍部に隠蔽(いんぺい)されて、大きく語られることのなかった戦いです。実際には宣戦布告のないまま戦争がはじまり、日本軍が1万5千人も死亡する戦争をしていたのです。その立案者が辻です。

 私はこのノモンハン事件の責任者が誰なのかが知りたくて、責任者の一人である辻政信を調べようとこの本を求めたのです。

 著作の中では、辻が一方的に立案し、当時ノモンハンと言う地名すらも知らなかった関東軍内部で、ここに兵を置くべきだと説いて回り、実際辻が指揮を取り、その上、宣戦布告もなしにソ連軍を攻めたことが書かれています。然し、彼は参謀であり、実践の指揮はできないはずなのです。つまり、ありとあらゆることで法律を犯し、無理無理戦争を仕掛けています。しかも戦いの結果は、1万5000人もの兵を失い、ノモンハンは結局ソ連に攻め取られ、一方的な敗北に終わっています。

 ここで著者は、ノモンハンは敗北ではないと書いています。日本の死者は1万5000人ですが、ソ連側の死者は22000人だと書いています。戦いの状況は一方的な敗北ではなかったと言うのです。実際、海戦とは違い、陸戦の勝利は読みずらいのです。然し、日本もソ連も望まなかった戦いでこの死者数は大きすぎます。 

 この戦いで辻は、後々まで人格を疑られる行為をします。戦争の責任を現地の士官に求め、自殺を強要したのです。士官は辻の私的な命令を受け入れ何名かが自殺をします。その後、関東軍は事件の隠ぺいに走り、これらの士官の責任としてノモンハンの戦い自体を収束します。立案者の辻を調査することなく、辻は日本に戻り、陸大の講師になります。

 その後の太平洋戦争の中で、責任者である立場の軍人が、戦争の責任を問われないまま、別の戦地に栄転(?)して行くと言う、悪しき風習がすでに起こっています。一切の責任を問われない立案者、無責任な指令、それによってこの後数百万人もの日本軍が死んで行きます。

続く