手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

謎の人 5

謎の人 5

 

 衆議院議員となった辻は、民主党の石橋派に属し、石橋湛山と共に海外に出て、東ヨーロッパや、インド中国の要人と会談をしています。昭和30年には有志の議員団と共にソ連に出かけ、いまだ収容所に閉じ込められている旧日本兵を帰国させる交渉をしています。

 国内では、石橋派に属し、保守合同で、石橋の後を受けて総裁になった岸を国会で厳しく批判します。それを新聞などでは面白がって記事にしています。政界での辻は仲間を持たず、支持基盤もないため、孤立を深めて行きます。昭和33年、結局、岸に疎まれ、自民党を追放されます。 

 然し、自民党を出たのち、無所属で参議院に鞍替えし、全国区で三位の得票数で当選を果たしています。依然として知名度と、人気は抜群なのです。

 ただ、支持基盤のない政治家が、いかに政治の世界で危ういか、派閥を持たない身が如何に無力かがわかってきます。功成り名を遂げて、辻は自分の進む道が見えなくなります。

 さらには胃の摘出手術をし、以後覿面に体力が衰えます。頑健で名をはせた辻にすれば、衰えはショックだったようで、どうもこの時期から自身の寿命を考えるようになります。

 

 そうした中、昭和36年、辻は突然「やり残した仕事がある」。と言って、東南アジアに旅立ちます。思い立つと行動は早く、参議院議員の地位のまま休暇を取り、ベトナムに向かいます。

 

 辻にとっての最後の旅となる、ベトナム行きが今もって謎の旅です。なぜベトナムに行かなければならないか。誰の、何のための旅なのか、これまで辻に関して書かれた読み物をみても明快な答えがありません。

 

 著者は、外務省の文書や、家族の手紙などから辻の足取りを詳しく調べています。先ず、サイゴン(現ホーチミン市)に着いて、南ベトナム政府要人に会い、北ベトナムに行く手続きを求めますが、果たせず、仕方なくカンボジアに渡りプノンペンに滞在。然し、ここでも北ベトナムには行けず、タイに渡り、タイからラオスに向かいます。そしてラオスから、山脈を越えて、車や徒歩で北ベトナムに入ろうと考えます。

 この旅の過程で辻の本心が明らかになります。辻は、北ベトナムホーチミン主席に面会を望んでおり、ホーチミンアメリカとの対立をやめて、和解をすべきと交渉しようと考えていたようです。

 ベトナムアメリカとの和解をなぜ辻が考えていたのか、と言うことの答えとして、岸の後を受けて首相になったばかりの池田隼人首相が近々、アメリカに行くときに、ベトナムの情勢を土産に持たせ、ベトナム戦争に勝ち目はない。ベトナムから手を引いたほうが良いと言うことを知らせるために、実際ベトナムラオスに飛んで実情を調べようとした。と言っていた証言を書いています。

 こうなると話は大きくなりますが、本当に池田首相が辻にベトナム行きを頼んだのでしょうか。この交渉の日本側の代表がなぜ辻なのでしょうか。また、辻に依頼すれば、ホーチミンが辻と会うのでしょうか。どうも謎だらけです。

 

 但し、辻の息子さんの証言では、池田首相から、ベトナム行きの旅費は出ていたようです。更に各国大使館に連絡が行っていて、辻に便宜を図るように首相から指示が出ていたと言います。

 タイの日本大使館からは、ラオスは、内乱のさ中で、入国は危険だと言われます。辻はそれならばと、旧日本軍人の伝手を頼って、革命軍に協力をしている旧日本軍人を探し、ラオス北部から、何とかベトナムに入り、ハノイにまでたどり着き、ホーチミンに面会を求めます。

 然し、面会は出来ません。辻は中国に飛びます。ここからは情報がいくつも分かれます。北京に送られ監禁されたと言う情報と、雲南省で監禁されたと言う情報です。いずれにしても、CIAの調査まで調べていますが、中国に行ったまではつかめていますが、その先がどうなったのかはわかりません。

 辻の足取りはここで絶えています。この後、日本に帰国をすることはなかったのです。

 

 辻は、ホーチミンがジャングルに籠ってゲリラ戦を繰り返しているのに対して、アメリカが本気になって大軍を派遣して来たなら、北ベトナムに勝ち目はないと考えていたようです。そうなら、日本の軍隊の規律を北ベトナム軍に教えて、アメリカと戦えるように協力をしたいと考えていたようです。どうもこの辺りが辻の本音だったように思えます。

 結局、辻は何ら目的を果たすことなく、その後消息を絶ち、日本政府も辻は死んだものと結論付けます。時に辻は60歳。今ならまだまだ現役で働ける年ですが、昭和36年ならば普通に寿命です。

 

 辻の一生を見ると、普通の軍人や参謀では絶対に知り得ない情報をやすやすと手に入れています。蒋援ルートで戦いを続けていながら、蒋介石とパイプを持っていたり、戴笠と言う大物政治家とのつながりを絶やさずにいたり。

 それが戦後になって、国民党政府を支援する顧問として南京に招かれ活躍したり。簡単に敵国政府に入り込んでポストを手に入れられるはずのないことをいとも簡単に辻はやってのけています。私はこの背後に石原莞爾がいると思います。

 昭和7年ごろの石原は軍部の中で誰も意見がさしはさめないくらい権力を持っていました。恐らく石原は独自の情報網や、敵国の政治家との深いパイプを持っていたはずです。石原失脚後は、辻がそれを受け継いだのでしょう。

 但し辻にとって不幸だったことは、辻の活動を、石原のライバルだった東条英機がことごとくつぶしてしまいます。そして日本の敗戦は辻の功績をはく奪してしまいます。

 それでも帰国後、小説で知名度を上げ、国政に打って出ますが、政治の世界は軍部とは違い、主義主張はお飾りで、党利党略、利益優先に事が進みます。昨日合意したことが翌日にはひっくり返って、ライバルに足をすくわれる政治の世界に嫌気がさして来たのでしょう。

 その後のホーチミンとの話し合いは、辻の本当の目的ではなく、無論、石原の指示でもなかったはずです。(石原は昭和24年に病で亡くなっています)。石原は第三次世界大戦を予言していますが、辻もそれを支持していた節はあります。

 それをGHQは危険視して、辻を偵察していますが、辻の行動を「政治においても、情報工作においても経験不足、無価値である」。とにべもありません。但し、石原の遺志を継ぐ男として要警戒人物であったことは間違いありません。

 さて、辻政信と言う人はどんな人だったのか、「辻政信の真実」は、労作ですが、闇の部分が多く、調べれば調べるほど謎の深まる人です。結局よくわからない人でした。

謎の人終わり