手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

独自の世界を作る 5

独自の世界を作る 5

 

5、パーソナリティを備えている

 

 結局長く生き残って活動しているマジシャンは、そのパーソナリティ(人格)が認められて、お客様から愛されているから生き残っていると言えます。逆に言えば、マジシャン自身がどんなパーソナリティを備えているのかを把握していないままに、セリフを言ったり、マジックをしていると、お客様の求めているものと合致せず、間違った方向を語ってしまい、一向に、マジシャンのキャラクターが完成せず、仕事先を戸惑わせてしまったりします。

 「自分自身が、お客様からこう思われている。こんなキャラクターだ」。と理解したら、ショウの中でのセリフも、マジックのストーリーを作るときも、キャラクターに沿って作って行かないと、やっていることとキャラクターがバラバラになってしまいます。

 つまり、自分自身で、こういうキャラクター、こういうパーソナリティを表現したいと決まったら、そこから客観的に自分を見て、自分と少し違った人格が作られて、別人格が独り歩きして行きます。言ってみれば、自分が自分ではなく、別人格の役になり切ってショウをして行くわけです。

 

 俳優の渥美清さんは、長いこと「男はつらいよ」の映画の中で、車寅次郎を演じてきました。あまりに長く一役をやり続けると、お客様は、寅次郎イコール渥美清さんなんだと錯覚をしてしまいます。

 そこで、映画の中の寅さんが、誰にでも気さくに話しかける姿を想像して、普段、渥美清さんが歩いていると、見知らぬ人が気楽に声をかけて来たりします。然し、日常の渥美清さんは、そんなに気さくな人ではありませんし、むしろ地味な人なのです。

 渥美さんは人と接するときに常に別人格をかぶって、寅さんを演じ続けることになります。然し自分自身は、「渥美清は車寅次郎ではない」、と思いつつ、それが言えずに、非常にストレスをためることになります。結果、人前に出歩かなくなります。

 これはキャラクターが完成した俳優の不幸です。然し、同じような話は枚挙に暇がありません。私が子供のころに活躍した、柳家金語楼さんしかり、植木等さんしかりで、強烈な個性で売ると、生涯、人はその個性で俳優を見て、日常でもキャラクターを強要します。

 柳家金語楼さんは、あの独特の笑顔から、行く先々で常にギャグを強要されました。然し、金語楼さんは普段決して笑顔は見せませんでした、普段はとても怖い顔をしたおじいさんだったのです。無論、ギャグも言わなかったのです。当然、面白い人だと思っていたお客様は面食らってしまいますが、ご当人は決して笑顔は見せませんでした。そうでもしなければ、常にピエロを演じ続けなければならず、周囲のお客様の欲求がエスカレートするばかりで、当人にとってはとてもつらい日々だったのでしょう。

 植木等さんも、「日本一の無責任男」などと言うタイトルで売れたために、日常から無責任さや、ばかばかしさを求められ。その役を演じ切るのに疲れ果てたと言います。

 

 キャラクターの負の面は一度脇に置いておくとして、お客様にしっかりとパーソナリティが認識されれば、自分の表現したい世界がよく伝わり、活動してゆくにも有利だと言えます。

 とかくマジシャンの喋りは、現象の説明が多いのですが、むしろ現象説明はショウにとってはマイナスです。マジックに説明は不要なのです。マジシャンのセリフはそんなことに使うものではないのです。自身のキャラクターを語るため、こういう(キャラクターの)人はどんな話の展開をするのか。と言う、お客様の興味を満たすのが目的で、個性的な話の展開を進めるためにセリフがあるのです。

 一度お客様にパーソナリティが認められれば、お客様は独自の世界にはまり込み、マジシャンから離れられなくなります。

 芸能と言うものは、ありもしない世界を大真面目に作り上げて見せることです。何もないところにたちまち堅固な楼閣を作り上げて、人を圧倒させるのが芸能です。然し、実際には嘘八百、何もないわけですから、語り終えたなら難攻不落の城郭は跡かたもなく消え去ってしまいます。

 まったく無くなったかと言えば全くではありません。お客様の記憶の中に残ります。記憶は時とともに薄れて行きます。薄れて行く記憶から初めの感動を呼び戻すために、お客様は繰り返し繰り返しマジシャンのショウを見に来ます。こうして、お客様とマジシャンの熱い関係が生まれるわけです。

 

 マジシャンは、どうしても、一作一作のイフェクトにこだわってマジックを考えようとしますが、肝心のお客様はそれほどマジックにこだわって見てはいません。むしろ、演者のパーソナリティにひかれて見に来ています。不思議よりもその不思議を表現する、沿革の世界のひかれてみている場合が殆どなのです。

 なぜなら、マジシャンが作り出す幻想の世界は、それが虚構であることをお客様は知っているのです。カードを一枚お客様に引いてもらえば、そのカードが必ず当たることはお客様は承知なのです。空中をつまめばそこからシルクが出ることも、シルクの中から鳩が出ることも、何度も見ていて知っているのです。初めに体験した不可思議な世界は、何度も見ているうちに極く当たり前なものに見えてきます。不思議は不思議ではなくなっているのです。

 マジシャンが新しい作品だ、と言うものも、かつて見た作品のバリエーションであることを知っています。そうなら特段の不思議でもないのです。

 そうでありながら、お客様が再々マジックショウを見に来るのはなぜか、それは、マジシャンでしか表現しえない独自の世界に触れたいからです。そのショウショウに嵌(はま)ったからです。そして、その世界に存在するマジシャンのパーソナリティにひかれ、マジシャンの語りが心地よくなってしまったから見に来るのです。決して一つや二つの不思議が解明できないから見に来るのではありません。

 

 然し、かつてなら、パーソナリティが、面白いとか、人柄がいいとかそんなことで十分人を集めることができたのですが、平成以降はお客様の求めるものがかなりハードルが高くなり、求める基準が複雑になってきています。お客様がかなり芸能を細かく選別してみるようになったのです。えらい時代になったものだと思います。その辺のことはまた明日お話ししましょう。

続く