手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

時流を読む 1

時流を読む

 

歯科医院

 4日前に奥歯に詰めてあった小さな金属が取れてしまいました。ほんの数ミリの金属です。いつはめたのかも覚えていないほど前に治療したものです。よく働いてくれたと感謝です。このところ久々に舞台が忙しく、歯の治療に行くけませんでした。昨日は祝日で病院は休みでした。そこで今日、歯科医院に行ってきます。

 ついでに肩が痛くて仕方ありませんので、整形外科に行ってきます。今12本リングを習いに来る生徒さんがいますが、指導していると、12本を持って灯篭を作ってポーズをとるとリングの重みで右肩が痛みます。

 灯篭はクライマックスの型ですので、そこに近づくにつれて徐々に気持ちも高揚してきます。ここはきっちり決めてお客様に喜んでもらわなければなりません。ところが、私はお手本を演じていながら徐々に不安になります。肩はチクチク痛くなり、重いリングを片手で持って軽々ときめのポーズをとろうとしたときに、ぐきっと痛みが走ります。流れを崩さないように手を高く上げなければいけないのですが、それができません。

 体の調子のいいときは何でもないことなのですが、今日は朝からチクチクと肩が痛み出しています。やはり整形外科へ行かなければならないでしょう。歯の治療だの、肩の治療だの、病院の話ばかりで、どうも年寄り臭くて申し訳ありません。いや既に年寄りなのです。

 

立ち食いそば屋に次の店ができる

 昨日駅に行ったときに、大風で倒れた立ち食いそば屋の跡地にまた建物ができていました。敷地のサイズは変えようがありませんから、建て直しても奥行き1mの店舗ですが、今度は全体を黒く塗装し、アートっぽい建物になりました。アートは結構ですが、奥行き1mで一体どんな商売をするのでしょう。

 人は、あれがないからできない、これがないからできないと、できない理由を探して世の中に不満をぶつけて、結局自分は何もしない人が多いのですが、幅4間(7.2m)、奥行き1mの店に夢を感じて商売をしようとする人の気持ちが偉いと思います。商売が始まったら何とか支援したいと思います。

 

時流を読む 1

 28歳(1982年)くらいから、スペースイリュージョンというタイトルで、すべての道具をモノトーンに統一して、宇宙をテーマにショウを構成し直しました。当時のマジシャンの道具は、赤だの黄色だのと子供の積み木のような色で箱が塗ってありましたから、私の道具立ては、大人の雰囲気があって、しかも、どれも金属でメッキがしてあり高級感が出ていて仕事先にはとても好評でした。あたかも時はバブルの真っ盛りでしたので仕事は一気に忙しくなりました。

 ところが、そのさ中、33歳(1988年)に芸術祭賞を受賞してから、自分のしていることがばかばかしくなってきました。鳩が出る。箱から人が出る。人が宙に浮く、人が消える。そんなことをして何になる。何の意味もないではないか。と自分の芸を疑るようになります。実際にお客様を見ていると、いいお客様に巡り合うようになると、何となく私の演技に満足していないように感じられるのです。

 「お客様の心の奥にまで感動を伝えていないのではないか」。と思うようになりました。然し、これはマジシャンにとっては危険な考えなのです。マジックをしていて、意味がない、内容がないと言ったらすべてが否定されてしまうのです。トランプを当てる、人を浮かせる。どれも初めから意味などない行為なのです。

 人はマジックを娯楽として見ているのですから、無理に意味づけをしたり、因果関係をこじつけようとすると、逆に煩雑になって娯楽の邪魔になります。一切悩まずに、パーッと派手な芸能が見たいと思っている人はたくさんいるのです。

 世の中はバブルの絶頂で、私のイリュージョンチームは順調でしたが、私一人は悩みの淵に立っていました。「もっと内容のある、見ごたえのある芸能がしたい」。と思いつつ、その答えが見つからず悩み続けていました。

 こんな時にいい指導家がいて引き上げてくれたならどれほど伸びたかわかりません。残念ながら私の周囲にはそうした人がいませんでした。いろいろ悩んで、当時水芸が評価されていましたので、水芸を核にして、手妻の充実を図れば発展があるのではないかと思い、徐々に手妻の方向にチームをシフトするようになったのです。

 さて、その手妻ですが、それまで何でも分かっていると思い込んで手妻を演じていましたが、よくよく考えてみると何一つわかってはいませんでした。自分が何もわかっていなかったと知っただけでも少し成長したのかもしれません。然し、そうならこの先どうしたらいいのか、どうしたらステップアップできるのかがわかりません。ここでもいい指導家がいないため苦しい思いをしました。

 

 古い文献や、聞き書きを見ると、昔の手妻師は、演技の決め、決めに様々な型を見せたり、演技の終わりに踊りを踊ったり、芝居をしたり、およそ手妻と関係のないことをしています。型は見得と同じことで、今でも行っていますが、昔はもっともっと当時の流行を取り入れて、市井風俗を表現することを目的にしていたようです。そうした芝居の過程に不思議があったわけです。

 あまり不思議を強調しないというのは、含蓄のある考え方で、江戸時代のように長い間、ものが発展しなかった時代に手妻を演じても、既にお客様はさんざん見た手妻から不思議を感じることはなかったのでしょう。もうお互いが訳知りの仲で手妻を演じていたわけですから、目新しい型を見せたり、話題を取り入れることでお客様の興味を得る以外生きるすべはなかったのだと思います。

 しかしそれが結果として独自のスタイルが生まれ、マジックの世界では稀有なほど不思議を強調しないマジックショウが出来上がったのです。

 通常マジシャンは、一つの不思議を演じるたびに、両手を伸ばして、観客にポーズをとります。それを見た観客は拍手を送りますが、よくよく考えてみるとおかしな行為です。不思議のたびにポーズをして拍手を送るというのは、そこで演技が中断されます。

 まるで、曲芸をした熊やアシカが一芸終わるたびにポーズをとって、角砂糖や鰯を欲しがるようなものです。お客様にとって大切なことは不思議かどうかではなく、演技に感動したかどうかが肝心なはずです。

 動物なら、途中途中で餌をもらわないと曲芸はできないでしょうが、人が人に演技していて、いちいち拍手を求めるのは演技が細切れになり、流れが乱されます。ところが手妻では不思議を強調せず、当然拍手も求めません。結果が不思議ではないのです。私は手妻の考え方が芸能として一格違うと気づき、そこから新たな研究が始まりました。38歳(1993年)のことでした。

続く