手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

新しい活動は 色即是空 空即是色 3

新しい活動は 色即是空 空即是色 3

 

 私が手妻の道具に高価な費用をかけるのは、手妻に基準を作りたかったからです。というのも、前にお話しした通り、30年ほど前まで、手妻の小道具にグレードの高いものがほとんど存在しなかったのです。道具は販売されていても、それはアマチュアさんがボランティアで演じて見せるレベルのものばかりで、ベニヤ板とか合板とか、アクリルでできたものばかりだったのです。

 ちゃんとした手妻の道具などというのはどこにもなかったのです。ちゃんとしたものとはどんなものを言うのか。そもそも私はそこから考えて製作して行かなければならなかったのです。

 つまり手妻の道具を考える以前に、道具とはどのように作られているのかを知らなければ過去の作品に遡(さかのぼ)ることはできません。そこで職人の仕事を見て回りました。蒸籠や引き出し一つ作るにも、先ず指物師(さしものし)に外観を作ってもらいます。その際、板と板を直角に合わせる場合、昔の工法では、接着剤で張り合わせたりするのではなく、見えないようなところで複雑に木を組み合わせて、直角部分に継ぎ合わせが出ないように、しかも釘やねじを使わずに壊れないように作ってあります。

 こうした作り方なら百年でも道具は使えますし、簡単には壊れません。指物師は、板から箱を作り上げ、それを下地師のところに持って行きます。下地師は、出来上がった箱に砥の粉を塗り、やすりなどで内外ともに磨き上げ、つるつるに仕上げます。

仕上がった箱は塗師(ぬし)と呼ばれる、漆塗りの職人のところに行き、生漆や、黒漆で塗り重ねられます。漆は、乾きの遅い塗料ですので、一度に厚く塗ることはできません。薄く塗っては何日か乾かし、また塗るという作業を何度も繰り返します。

 漆が塗り上がると今度は、蒔絵師のところに持って行き、花柄や毬を金蒔絵で描いてもらいます。蒔絵は何色も塗りますので、一色一色塗りあがっては乾かします。そうして出来上がったものを再度指物師が受け取って、全体を組み上げます。

こうして一作の小道具ができ上がります。工程ごとに職人が変わるのです。単純に言って、一作仕上げるのに3か月はかかります。先に、小箱一つの代価が30万円と言いましたが、各職人が数日かけて道具を仕上げますので、当然手間と日数がかかります。それでいて彼らが手に入れる収入は手間賃だけなのです。日当分の費用を何人もの職人が分け合っているわけで決して高額な代価を求めているわけではないのです。

 そのことがわかると昔ながらの製法でできた小道具は決して高価なものではないとわかります。確かにアクリルや合板を張り合わせて作れば、製作日数はわずかで、安価にできますが、そうしたものは長くはもたないのです。また使ってゆくうちに独特の風合いなども生まれては来ないのです。

 私はいいものを作って、私が80代まで使い、その先は弟子に譲りたいと考えています。こうして作品が受け継がれて行くうちに、昭和に作られた道具が百年二百年と伝えられてゆくわけです。これが日本の奇術界の財産になり、新たな伝統になって行くと思うのです。さて、マジックをなさる人で、自分の道具が百年残るような道具をお持ちでしょうか。もし自分が亡くなってしまったら、全部ごみとして家族に捨てられてしまいませんか。それを寂しいこととお考えになりませんか。

 

 舞台前に楽屋の化粧前(けしょうまえ=楽屋の壁に貼ってある鏡の下にカウンターのように作り付けてある横長のテーブル)に小道具を並べて、それを一度客観的に眺めてみてください。それが美しく、しかも外部の人が見てもいい道具に見えますか。残念ながらマジシャンの道具は粗末なものが目立ちます。アマチュアならどんな安価な小道具でもいいのです。しかしプロなら、持っている道具は歴然とアマチュアとは違うものを持たなければいけません。

 それは例えば音楽の世界を考えてみてください。一流というミュージシャンは間違いなく高価な楽器を持っています。ギターでも、フルートでも、バイオリンでも、三味線でも、時に数千万円から、億の金額の楽器まで所有しています。彼らはそれがどれほどいい音を出す楽器であるかを知っているのです。それがわかるからプロミュージシャンなのです。

 マジシャンも本来その点は同じはずですが、どうも道具に関する限りマジシャンの持ち物はお粗末です。どう見てもプロの道具とは思えない小道具やテーブルを楽屋に持ち込んでいる人がいます。プロとしてこれでいいのでしょうか。

 特に最近、和妻。手妻を演じる人で、その宣伝用のプロフィールの中に、400年の歴史を持つ和妻とか、伝統芸の継承者とか、古典芸能の保持者、などと和妻を自慢して誇大に書く人があります。私は、最近になって和妻をする人が増えたことはいいことだと思っています。20年前までは誰も和妻に興味を示していなかったのですから、理解者が増えたことは喜ばしいことです。

 しかし注意しなければいけません。伝統芸の保持者なら、その芸は誰から習ったのか、はっきり系譜がわからなければ継承者にはなれません。ビデオや、道具についている解説書を見て覚えたというのでは継承者ではありません。誰から、何を、いつ学んだか、が大切で、それがはっきりしていない演技者は継承者とは呼ばれません。

 その習得も、手妻の種仕掛けだけでなく、着物の着方、たたみ方、立ち居、挨拶、所作、日本文化がしっかり守られていなければ古典とは言えないのです。自分で見様見真似で覚えたというのは古典芸ではないのです。

 例えば島田晴夫師の傘の演技には全く手妻は入っていません。まったく師のオリジナル演技なのです。それゆえ、師は自分では手妻とも和妻とも言っていません。師の演技は日本風マジック、あるいはジャパニーズスタイルマジックと称しているのです。私はそれで十分だと思います。

 あえて伝統を持ち出す理由はないのです。和妻を自分で好きになさっているなら、伝統や継承の言葉を使ってはいけません。そんなものに頼らずにもっと自分を信じて強く生きてください。

 

 私は新しく工夫を加えた作品ができると、アトリエに毛氈を敷き、テーブルを置き、小道具を乗せ、舞台衣装を着て、全体の写真を撮ります。その上で、客観的に写真を眺めてみて、どこを見ても飛び出して見えるところがなく、全体がうまく収まっていて、あたかも百五十年も前からあったかのように見るなら、その作品はいい手妻だと思って満足します。私が目指しているのはその世界です。すなわち何もなかったところから百五十年も前の作品が忽然と生まれること。それすなわち「空即是色」なのです。

新しい活動は 色即是空 空即是色 終わり