手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

私は運が強い

 以前、ブログで、「私は運が強い」と書いたのですが、読者から、「本当か」。「どの程度運が強いのか」。と、尋ねられました。私はこれまでも自分は運が強いほうだと実感していますが、決してそれを自慢したりはしません。なぜかと言えば、当たる当たると言っても、成功率は三割あるかないかですから。外れるときのほうが多いのです。但し、世間で三割の成功率は相当に高いようです。そうであるなら私は、結構運が強いのか、と得心しているわけです。これまでも、大小様々に当たりを経験しています。

 何気に引いたくじが、二等、三等、二等、三等と当たりまくったり、(ちなみにそのくじに二等も三等も二枚づつしか入っていなかったらしいのです。)

 レストランで食事した帰りに引いたくじで一等の高級ワインの詰め合わせ二本が当たったり、当たったのはいいのですが、その後に仲間と飲みに行くときに、重いワインを抱えて、あっちの店、こっちの店に行き、くたびれました。

 ラスベガスでスロットをやって、1000ドル当てました。ロシアの飛行場でも小銭でスロットをしているうちに大当たりして、500ドル近くを当てました。ロシア人が大勢集まって大盛り上がりでした。

 新幹線で盛岡駅に着いたときに、金を鳴らしながら駅長がやってきて、「はいあなたが新幹線盛岡駅利用者10万人目です」。と言われて、持ちきれないほど、盛岡の銘菓を貰い、「いえ、いいんです。荷物がありますから、こんなにお菓子はいりません」。と断っても、「いえ、貰ってもらわないと困ります」。と無理無理押し付けられて、煎餅やら、クッキーやら、漬物やら、背負いきれないほど記念品を貰って、両手には、マジックの道具の入ったスーツケースを持って、身動きできないほどの荷物を抱えてショウの楽屋に入ったり、

 自分自身が望むと望まないとにかかわらず、やたらとくじを引き当てます。無論、当たらないときもあります。自分なりに、どうしたときに運が強くて、どんな時に運が弱いのかを考えたことがあります。そして自分で出した答えを以下に記します。ご参考になれば幸いです。

 

 一つは、無意識にくじを引く。あまり当て込んでくじを引こうとすると、周囲の気持ちなど、余計なことを考えてしまって、うまく行きません。雑念を払いのけてくじを引くと確率は少し上がるようです。しかしこれではあたるも八卦、当たらぬも八卦です。もう少し確立を上げる方法があります。

 

 二つ目、当てようと強く思うことです。但し、当てて儲けてやろうとか、儲かったなら何かを買おう。などと先に欲を張らないことです。純粋に、当ててやろうと強く念じてくじを引きます。この時当たらなかったらどうしようとか、今日の自分は付いているだろうかとか、自分を疑ったり、迷ったりしないことです。純粋に当ててやろうと念じてくじを引きます。これで一つ目よりもかなり確率が上がります。

 

 三つめは、輝きを見つけることです。箱の中にたくさんくじが入っていたりして、同じくじに見えても、その中から何か感じるもの、何か輝いているもの、そこを選んで引いてみます。光輝いて見えると言うことは何かメッセージを自分に送ってきていることですから、まずはそれを信じてみることです。これが案外当たります。

 例えば三角くじのように、あらかじめ数あるくじの中に当たりが隠されているものなら、箱の中を真剣に眺めて、光り輝くものを探して取れば、かなりの確率で当たります。同様に、例えばパチンコの台とか。ラスベガスのスロットマシーンなどは、出る台はお客様が店に入る前から決まっていますから、出る台の情報を知っていれば当たります。(但し、これは光でも、輝きでもなく、店の癖とか、全体の台の流れなどの情報を調べるわけですから、毎日パチンコ屋さんに出入りしている人から情報を聞いたほうが運よりもずっと確かです)。

 宝くじは、並んでいる宝くじを、いくら眺めていても無駄です。宝くじと言うのは、我々がくじを買った後で抽選をするわけですから、店頭に並んでいる時点では当たりはずれの予測はできません。我々は全く当たってもいない紙切れを買っているのです。いくら第六感を働かせたところで当たりは見えません。こんな時は、その日の体調がいいとか、人生が何となくいい流れに来ている。などと言う時に、自分を信じて買ってみるのがいいようです。

 

 四つ目は、神に祈らないことです。こんなことで手を合わせて神様に祈ってはいけません。全く自分の欲のために神様を使うのは間違っています。神様と言うのは、純粋に崇めるもので、自分の欲のためにこき使うものではないのです。だから、私は、神社に行っても、お寺に行っても、手は合わせますが、願い事はしません。神仏に個人的な願い事は失礼です。ギャンブルなどと言うのは全く自分事です。あくまで自分の目で判断して引かなければだめです。運の良し悪しは自分自身にあるのです。神に頼るのではなく、自分を信じるのです。

 

 五つ目は、純粋に楽しむことです。くじだの、宝くじだの、或いは競馬にしろ、パチンコにしろ、それそのものを楽しみと考えなければやっても面白いものではありません。本当に儲けたければ、ちゃんと仕事をすることです。自分の仕事で稼いだときはとても充実します。運に任せてギャンブルをするなら、自分自身が楽しむ余裕が必要です。くじを引く場合は、引くときから、めくるときまで、その過程を楽しむことです。自分の心を高揚させて、遊びに乗ることです。この遊びに乗ると言う気持ちが重要です。運の強い人は、信じて乗ることががうまい人だと思います。外れようと何だろうと、乗って楽しむ。これが大事です。当たりはずれは楽しみの更に先の話です。

 

 と、そんなことを考えて、くじを引いたり宝くじを買ったりしています。そうすると、不思議なことに人よりも当たりの回数は多くなります。これは私に限ったことではないのかもしれません。もし、私が上に書いたことと同じことをあなたも実践してみたなら、自然に当たりの確率は高まるかもしれません。但し、過信は禁物です。私は人より当たる確率は高いほうだとは思っていますが、それを才能とは信じてはいません。たまたま今日までがよかっただけなのかもしれません。ゆえに当たりを自慢しません。運の良し悪しには根拠がないからです。

 

 それと、人の将来が見えると言うことも付け加えて書いておきます。たまたま会った人が、生彩がなかったり、寿命がなさそうだったりと感じることがあります。然し、私はそのことを決して相手には言いません。言ったところでどうしようもないからです。何か病気を持っていそうだ、などと思っても、私がアドバイスをしたところで、その人が日常生活を改めたりはしないものです。だから何も言いません。

 もし私が、もっともっと感が鋭く、偉大な人物の寿命を言い当てたりできるなら、私はそれを仕事にできるでしょうが、私に与えられた才能は小さく、狭い世界の当てものに過ぎません。根拠もあいまいです。そうなら、私の第六感は大した才能ではないのです。それ故に人には自慢しません。ただ感じるままに理解して、自分の心にしまっておくだけです。但しよく当たることは事実です。