手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

ギャンブラー 2

ギャンブラー 2

 

 ここで何度か、この先日本でポーカーは必ず流行ると書きましたが、なぜポーカーが流行るのかというなら、ポーカーには多分に技術介入の余地が残されているからです。

 多くのギャンブルはスロットマシーンでも、ルーレットでも、トニーワンでも、そこに技術介入の余地がありません。スロットマシーンで言うなら、自分が座ったときに、既に勝つか負けるかは決まっています。スロットマシーンは誰が金を入れても、予定の回数を回さない限り当たりは来ません。

 いくら神様にお願いしても、コインの入れ方を微妙にずらして入れても、結果は同じです。マシーンはそんなことで予定回数を変えることはないのです。ルーレットも同様で、参加者は一切ルーレットに触れることは出来ず、ただ座って見ているだけで玉が落ちて行き、数字が決まって行きます。全く技術介入の余地がないのです。

  無論、データーから当たりの確立を読むことは出来ます。それでも、1000回黒が来たから、次は赤になると言う可能性はないのです。確率が平均化するのはとてつもないデーターの末ですから、1000回2000回偏ることはざらなのです。一晩の楽しみでルーレットをする人たちには、データーは殆ど役に立たないのです。

 

 かつてのパチンコには技術介入の余地がありました。釘の調整1つで玉の出具合が決められていた時代は、先ず、釘が読める人が有利であり、次に、どこを狙えばより効率よく玉が出るか、が分かる人が必ず勝利したのです。

 私の学生時代には、パチンコで生活費を稼ぐ仲間が何人かいたのです。そう言う仲間について行って、どういう台が出るのか、実際に台を見て教えてもらったことがありましたが、結局よくわかりません。かなり釘の読み方は複雑なのです。

 ところがその後になって、CR機と言う、コンピューターで当たりを管理する機会が出るようになると、もうパチンコ屋さんは釘をいじらなくなります。当然、技術介入の余地がなくなり、出ると決まった台に座れば必ず出ますし、出ない台でいくら粘っても出ないのです。それはスロットマシーンと同じことです。巧いから当たるのではなく、いい台に座ったから当たるのです。

 

 ところがポーカーは他のゲームとは様子が違います。確かに、いい手が来るかどうかはとても大切な要素です。手が良くなければ、如何に名人でも、長い時間ゲームをすることは出来ません。然し、手が悪いからと言って、必ずしも負けるわけではありません。

 カードを撒いてゆく過程で、金を賭けて行って、アップしたり、黙ってコール(相手のアップした金額にに従って、それ以上上げない)したりして、駆け引きをするうちに、本来見えないはずの相手の手が、何であるか見えて来ます。

 それは相手の癖であるとか、表情の変化などを見て、どんな手が入ったときにどんな表情をするのかを読み取るのです。掛け金を見ても、相手の手が大きいのか、小さいのかは掛け金でおおよそは分かります。ワンチャンス待ちなのか、もうすでに手が出来ているのかも大体わかります。

 と、同時に、相手も自分の手を読み取ろうとしていますので、自分の本心を見破られないように演技をしなければいけません。いい手が来てもわざと掛け金を低くして小さく見せたり、逆に何も手がないのに大きく賭けてブラフ(はったり)をかませます。その都度相手は、私の手を邪推して、更なるアップをかけたり、時に降りてしまったりします。

 自分はノーペアであるにもかかわらず、ブラフをすると、相手は勝手に私の手を過大に見て、相手がワンペアであっても、降りてしまうことがあります。大きな金額が動いているときにブラフで相手を倒すと、その快感は堪えられない喜びがあります。

 それはちょうど、戦国時代の戦いで、50人か百人くらいの家来を連れて、草むらに隠れている所を、敵の大軍が通りかかったときに、いきなり「うおーっ」と大きな声を上げて、百人が一斉に立ち上がり、襲い掛かると、相手は驚いて、高々百人の兵を、数千人の敵と錯覚して、隊列は大混乱をきたし、大軍が退却するのと同じです。

 あの時の戦の興奮(私は知りませんが)にも似た喜びが、ブラフにはあります。但し、そう簡単に相手はブラフには乗りません。ゲームを続けていればゲーム自体の大きな流れはみんな見えていますから、突拍子もない奇手が出ることは殆どないのです。

 ところが、そう思ってゲームをしている相手に、安心させておいて、とんでもないところで自分がいつの間にか嵌っていると気付かせます。いやいや、気付くではなく、錯覚を起こさせます。地味に地味に小さくアップを繰り返していたものが、ラストに至って、突然、大きく賭けて来ると、相手は驚き慌てて、想像以上に私の手を大きく想像します。そうして慌てふためく姿がブラフの醍醐味です。こんなギャンブルはポーカーを置いて他にはありません。

 誠実に固く生きることが日本人の美徳だとすると、およそポーカーは日本人的なゲームではありません。嘘や騙し合いの世界なのですから。然し、そうであるがゆえに一発逆転の大勝負が生まれるわけです。

 

 但し、ポーカーは相当資金を持っていないと出来ません。大きく勝つと言うことは大きく負けることでもあります。また、5分10分遊んで大勝ちすると言うゲームではありません。長い時間座って、相手の癖をしっかりと読んで、戦を仕掛けるわけですから、少なくとも2時間3時間時間をかけて戦わないと大勝利は掴めません。

 刺激的で、面白いゲームではありますが、同時に危険も伴います。プロギャンブラーと称する人は、年収1億以上稼ぐ人がいる半面、名人と呼ばれる人ですら、連日負け続けて1億の金を失う人もいます。ギャンブルは、長くやって、しっかり知識を身に付けているからと言って、知識で生活しては行けないのです。一回一回が新しい勝負です。何十年経っても基本的なブラフでだまされますし、全くの素人にも負けます。

 マジシャンの技術の蓄積とギャンブラーのそれを比べて見ると、はるかにマジシャンの方が技術で生きて行けます。マジシャンの技術は汎用性がありますし、その支持者も数多くいます。なぜならマジックが単純な金銭のやり取りではないからです。

 ギャンブラーのテクニックとは自身の稼ぐための技であり、それによって周囲の人を楽しませたり、仲間を作ったりするものではないのです。そうした人がスランプ(絶不調)に陥ったときほどつらいものはないでしょう。

 タレントなら、パチンコや競馬で負けても、その後でお客様を相手に歌を歌ったりマジックをして見せればそれが収入につながります。然し、ギャンブラーは、ギャンブルで負け始めると、不調と分かっていてもギャンブルをし続けなければならないのです。

 来る日も来る日も負けると分かってギャンブルをすることくらい辛いことはないでしょう。多くの名人と言われたギャンブラーが人知れず消えて行く理由は、その責任をすべて個人が背負わなければならず、スランプの重圧に耐えきれなくなるからなのです。山が高ければ谷も深いのです。明日は、なぜポーカーが注目され始めて来たかについて、お話しします。

続く