手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

大波小波がやって来る 14

 親父が亡くなったのが平成9年の12月。親父をなんとか賑やかに送り出してやろうと、葬式を奮発したのは良かったのですが、後で親父の銀行の通帳を調べたら4000円しか残っていませんでした。73年も生きて、貸し借りなしの4000円は見事です。但しそのあと葬式の返済に苦労しました。

 年が明けて、新しい手妻の手順を作っているさなか、資金が足らずに、あれこれ企画が頓挫していました。ここから話を前に進めるためにはまとまった資金が必要です。どうしたものかと考えていると、1月に私の所に尋ねて来る人がいます。元クロネコヤマトの会長の都築幹彦(つづきみきひこ)さんです。東京アマチュアマジシャンズクラブに所属していて、手妻が好きで、誰かにきっちり習いたいと言っていたのです。それを奥井さん(元アサヒビールの役員)が聞いていて、私を紹介してくれました。ご当人は、何年もかけてじっくり覚えたいから、月に2回通いたい。と言って来ました。

 そうした生徒さんも何人かいましたから、すぐに了解しました。その教え方がよかったものか、すぐに翌月新たな生徒さんがきました。元千葉大学教授で、頭の体操と言う本を40年間出し続けている多胡輝(たごあきら)先生です。なぜよりによって私の所にこうまで大物が訪ねて来るのかわかりません。多胡先生は、ベンツを運転手に運転させて、車を待たせて毎回習いに来ます。二人とも月に二回習いに来ます。

 この二人が私のしていることに興味を持って、私が、「今、江戸時代の装置を改良して、漆塗りに蒔絵を施した道具を作っています」。というと、二人は値段も聞かず、「それなら僕も一つ貰うよ」。と、製作中の装置を買ってくれます。一作40万円などと言う作品です。一度に三組作れば職人も喜びます。お陰で自分の作品も安く作ることができました。こうして、道具製作中も資金に不足することなく、やりたいことに時間をかけることができたのです。

 

 私は常々思っていましたが、私が何か新しいことをする時に不思議に支援者が現れるのです。親父が亡くなってすぐの、都築さんと多胡先生です。このお二人がその後も10年以上、私を支え続けてくれたのです。私はこの時、「今自分のしている、手妻の活動は、天が支援してくれている」。と確信しました。何かはわからないものの、熱い支援の下に、手妻を作っていると感じました。何より、日本を代表する、経営者と、学者さんが頻繁に私の家に尋ねて来てくれることは私の周囲を明るくしてくれました。

 

 後でお話ししますが、この時私には抜き差しならない問題を抱えていました。SAMです。日本の地域局を作って、プロもアマチュアも、ディーラーも一体となった組織を作り、毎年世界大会を国内で開催し、雑誌を年6回発行すると言う活動を続けてきたのです。これは非常に意義のあることで、今も、SAMの会員であの時代を懐かしむ人は多くいます。然し、それを維持するために私は多くの費用と、時間を使わなければならなかったのです。バブルがはじけて、私のチームの収入が少なくなった後も、SAMは毎年100万円、200万円と赤字を出し、その都度、私が補填していました。今冷静に考えても、私の人生の最大の失敗はSAMでした。

 もっと早くにSAMから離れていれば、手妻の改良はもう5年早まっていたでしょう。そうなら、さらに次のステップも狙えたはずです。それが果たせなかったことは人生の大きな失敗でした。私はもっと、もっと自分のために時間を使うべきだったのです。このことはどうしても後世に書き残しておきたいことの一つなのですが、周囲の人を傷つけず、当時の状況を語ることは難しく、今まで躊躇してきました。然し、そろそろ書かねばなりません。いずれまとめてお話ししましょう。

 

 然し、嘆いていても始まりません。アレンジは着々と進みました。蝶に関しては平成8年には今の形になっていました。前半の傘出しが難関でした。然し、作りたい道具の図面や、見本を以前から、バルサなどで作ってありましたので、実際に制作を始めるとどんどん出来て行きました。本物の職人の装置が一つ一つ出来て行き、手順の稽古をし始めると、充実感がみなぎってきました。自分自身が人生で何がしたかったのか、ひしひしと実感しました。

 その上で、杵屋裕光さんに音楽を作曲してもらい、演奏家を集めて録音し、曲が完成しました。そして、その年、平成10年の10月に芸術祭参加公演をしました。それが芸術祭大賞につながりました。私が44歳の時でした。

 受賞のニュースがテレビで流れると、翌日には突然多胡先生が訪れ、「いやぁ、大したもんだ、素晴らしい」。と喜んでくださり、10万円のご祝儀を頂きました。まさか多胡先生がこんなにはしゃいで喜んでくださるとは思いもよらず。有難いと思いました。リサイタルはとにかく費用がかかりますので、あちこち借金だらけで首が回りません。こんな時にご祝儀を頂くと有難みも身に染みます。

 

 これまでも不思議と私の人生は、支援してくれる人に恵まれました。小野坂東さんはその代表的な人です。どれだけお世話になったか知れません。松本幸四郎さんもそうでした。随分面倒を見てくださいました。その後に熱い支援をしてくださることになる澤田隆治先生は、この時の受賞を知って、レストランに招待してくださって祝ってくださいました。他にも数多くに支援者がいらっしゃいました。

 どうしてそこまでわたしに入れ込んで下さるのかはわかりませんが、これ以降、20年以上にわたって支援してくださっています。

 

 こんな風にお話しするといいことずくめの人生ですが、実は、その後にリーマンショックがあったり、東日本大震災があったりで、その都度、随分仕事を減らしました。うまく行かないこともたくさんあったのです。然し、何となく40を過ぎてからは、周囲の人に支えられて、大きな苦労をしなくても生きて行けるようになりました。

その辺ことはまた次回。