手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

第六感

 昨日は、私がくじを当てるのがうまいだの、景品を良く貰うだの、どうでもいいような話を書きました。確かに、商店街の福引で、味噌を貰った、しょうゆを貰ったなどと言う話は、大した話ではありません。別段人に言うことではないのです。

 人の将来が何となく読める。と言う話も、私自身、これまで誰にも公表しませんので、大した結果に至っていません。

 私に予知能力はあるかどうか、これは微妙だと思います。当たる当たらなにばらつきがあります。でも、私自身は思い当たる節が多々あるのです。大きな地震や事件が来るときに、その半月前くらいから必ず睡眠不足の日が続きます。

 私は不眠症と言うほどのことはありませんので、眠れないと言う日があれば、それ自体おかしなことだと感じます。不眠が続いた後、結局寝るのですが、その夢の中に、地震の地域に関連した人のことが良く出て来ます。熊本地震の時には、九奇連の初代会長の原田栄次(故人)さんが、度々夢に出て来ました。当時90に近くなり、ずっと病院で暮らしていました。私は随分お世話になった人でした。然し、当人が病院に入ってしまったこともあり、縁遠くなり、その後の音信はなかったのです。

 それがなぜか地震の10日前くらいから原田さんが夢に出て来て、昔話をしたがります。縁の深い人でしたから、そんなこともあって当然かと思っていました。

 然し、少し心配になり、手紙を書きました。原田氏との文通は40年に及んでいます。

 舞台のこと、SAMのこと、家族のこと、弟子のこと。私にとっては抱えきれないような問題の話を全て原田さんに手紙で相談していました。実は原田さんには私と同じ年の長男さんがいらっしゃいます。今は、息子さんが原田さんの会社(紙問屋)を継いでいらっしゃいます。原田さんはまるで私を、息子を見るような気持ちで接してくださいます。然し、病気のこともあり、原田さんから返事が来るとは考えてはいませんでした。そして数日後、地震が起こりました。私はご子息に電話をしました。会社の倉庫の紙は散乱し、かたづけるだけでも半月はかかると言っていました。そこで、すぐに手紙を書きました。そこに、原田さんの会社へのお見舞い金と、原田さん個人へのお見舞い金を添えて送りました。

 すると原田さんから返事が来たのです。文字は、昔の達筆なものではなく、よれよれな年寄りの文字でした。内容は、いたって心配することではなく、病院にいて無事だと言うことでした。ただ、その手紙の中に、私が、九奇連を起こした功労者であるとか、SAMを起こした功績のねぎらいの言葉等がびっしり書かれていました。

 文末に、「あなたは奇術界からもっともっと表彰されていい人だ。いや、奇術界だけでなく、国からも表彰されるべき人だ。私も及ばずながらあなたを支援したい。ついては300万円でも、500万円でも、差し上げたい。その金で、大きな肖像画を書いてもらい、家の壁に飾ってほしい。これが私の願いです。」

と書かれていました。私は感謝の手紙を書きました。話はそれで終わったのですが、翌年になって、息子さんから電話がきました。「父があなたに300万円渡すと言う約束をしましたか」と、言います。私は驚きつつも、「えぇ、手紙にはそんなことが書かれていましたが、原田さんもお歳でしょうから、私も本気にはしていません。」と答えると、「ベッドの上で、毎日私にその話をしますので、私の方で300万円用意しました。熊本まで取りに来てくれますか」。と言うのです。無論依存はありません。原田さんと会えることも幸いですし、息子さんに合えることも久しぶりです。

 と言うわけで、すぐさま飛行機に乗って熊本に行きました。息子さんが飛行場で待ってくださっていました。会社を休んで、半日私に付き合ってくれました。食事の後、水前寺公園に近い、病院に行きました。原田さんはもっとやつれているかと思いましたが。意外なほど元気でした。もう90を過ぎています。

 そこで一時間、昔の話をしました。日当たりのいい病室で、のどかなひと時でした。そのまま飛行場に行き、息子さんから300万円を頂きました。今まで奇術の世界でこんな形で私の活動を評価して貰ったのは初めてです。支援金はずいぶん助かりました。

 

 初めに、夢に原田さんが現れて、その後に地震があった時は、地震の予知かと思いました。しかしそうではなく、原田さんと最後の再開をすることだったのです。しかも原田さんから支援金を頂きました。この支援金を、くじだの、ギャンブルに当たった話と一緒にすることはできませんが、確実に熊本からメッセージがあったことは事実です。

そうなら、私に予知能力があるのかもしれません。

 

 話は前後しますが、東日本大震災の時も、10日くらい前からなかなか寝付かれず、寝ると、祖母が現れました。夢に出て来る祖母は亡くなる少し前の姿で、布団に寝ながら、大正12年関東大震災の時の話をします。当時祖母は祖父と結婚してすぐで、宮城県の塩釜にいました。親戚が阿部の笹かまぼこだと言う話は前から聞いていました。

 祖父は地元でブリキ職人をしていました。関東大震災の後、東京が復興景気だと言うので、祖父は東京に出稼ぎに出ます。その間に長男(私の親父)が生まれます。

それから待てど暮らせど、祖父からは手紙も来なければ、帰っても来ません。仕方なく祖母は、阿部の笹かまぼこの家に相談に行きます。そして、阿部から10円の金を貰い、汽車に乗って、生まれたばかりの長男を抱いて東京に行きます。祖父が借りていた世田谷の下宿に行くと、祖父は、連日面白いように金が入りますので、仲間と博打をして、酒を飲んでひっくり返っていました。

 それから祖父母の東京の生活が始まるのですが、話はここまでです。祖母は、塩釜から仙台に出て、阿部の家に寄って10円貰い、東京に出る話を、亡くなる前に何度も何度も私に話しました。祖母にすれば一生忘れられない話だったのでしょう。

 そしてその話をすると決まって、針箱の小引出しの中から、10円玉を5,6枚取り出して、真顔で、「取っておきな、お金はいくらあっても困るもんじゃぁないからね。」と言って、10円五枚を私に渡して呉れます。大正時代の10円金貨なら、一枚何十万円もしますから有難いのですが、呉れる10円はいつもの茶色い10円です。私は50円貰って、どういう表情をしていいか、困ってしまいました。祖母は貨幣の価値だけは大正13年のままなようです。

 

 然し、なぜ、この時、眠れない日が続き、しかもそこに祖母が出て来て、10円を握りしめて東京に出てきた話が繰り返し夢に出て来るのかがわかりません。私と阿部の笹かまぼことはその後全く縁がなく、従って、仙台駅前の店も、塩釜の家も行ったことはありません。全く無縁の話なのです。「おかしなこともあるものだなぁ」と思っていました。それから10日後、東日本大震災がありました。塩釜の町に津波が押し寄せてくるのもテレビで見ました。私が行ったことのない、祖父母の住んでいた家も、全く確かめることないまま波が呑み込んで行きました。

 この災害を祖母は伝えたかったのだろうか。だとしたら、なぜ私に伝えたのか、私はこんな時に何をしたらいいのか。自問自答しました。その後、月並みな義援金と、支援活動はしました。然しそれ以上自分のなすべきことが見当たりません。

 こんな時に、私は、熊本や、東北の人に、「災害がやって来る」と、伝えるべきでしょうか。仮に伝えたとして、何かの役に立つでしょうか。もし役に立つとするなら、実は、今、私は寝付かれない日々を送っています。そのことをいうべきかどうか、ずっと半月も前から悩んでいました。そのことを書いてみようかと思います。

その話はまた明日。