手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

シトロエン

 20代の頃は、国産車に乗って仕事に行ってました。私は、特に特定の車に乗りたいとも、この車でなければいけないとも思ってはいませんでした。むしろ、サイズと、馬力がある程度あれば、普通の国産車で何ら不便を感じることもなかったのです。

 ただし、一台だけ乗ってみたいと言う車がありました。フランス社のシトロエンです。20代の頃に、ポールボネさんと言う随筆家の本を熱心に読んでいました。この人は名前の通りフランス人で、本の内容は、フランス人から見た日本の社会を面白おかしく書いたものでした。そこに、シトロエンについて書かれた文章があったのです。

 子供のころから気になっていた車でしたから、熱心に読んでみましたが、まさに目からうろこの思いでした。と同時に、車に対する考え方が、ドイツ人とフランス人では180度違うことに驚きました。日本国内ではドイツ車を世界最高の車と評価する人が多いのですが、車の歴史で見ると、ある時期はイギリス車が、その後アメリカ車が、今はドイツ車の評価が一番ですが、まず、フランス車に対する評価は今も昔もはっきりしません。特に、シトロエンと言う会社は、世間では、「奇妙な車を作るメーカー」と言うイメージが強く。独創性は認めても、乗りたいかどうかとなると多くの人は疑問符のつく車のようでした。

 しかし、フランス人にとってシトロエンアメリカ人のフォード、ドイツ人のベンツ以上に思い入れが深く、少なくとも1970年代までは、フランス国内でも別格の評価をされていたのです。シトロエン社が考案した、ハイドロニューマチック(サスペンションが、板バネでなく、オイルによって車のクッションを安定させる装置)の技術や、前輪駆動をいち早く量販車に取り入れた先見性、パワーステアリングの技術など、海外よりも先に考案した独自のアイディアによって、先進的な車を完成させた創造力をフランス人は手放しで礼賛していました。

 フランス国内では、同じフランスのメーカーのプジョーや、ルノーよりも評価が高く、歴代の大統領の専用車は長いことシトロエンでした。大統領が、海外を訪問する際にも、必ずシトロエンを飛行機に乗せ、外国の元首と儀仗礼を済ませた後は、前輪と後輪が異常に離れていて、妙に胴の長い、顔は妖しく滑っとした、宇宙船のような車に乗り込んで、当の大統領は悦に入って走り去って行く姿を、度々ニュースで見ました。

 「フランスが国を挙げてそこまで信頼している車なら、きっと何か素晴らしい要素があるのだろう。できることなら一度乗ってみたい」。と思っていました。しかし、当時、1970年代のシトロエンフラグシップカーは、今日の価格にして700万以上の価格でしたから。とても私の買える車ではありません。なんせその頃の私は、中古の10万円の国産車に乗っていたのですから、全く問題外の、夢のまた夢の話だったわけです。

 ところが、33歳の時に、文化庁の芸術祭賞を受賞すると、仕事が山のように来ました。今まで寝るのも惜しんで必死に道具を作ったり、稽古をしたりとマジックにばかり関わってきて、ほとんど贅沢をせずに過ごしてきましたので、ここで自分に褒美を出そうと、自分用の車を一台購入することにしました。その時はたとひらめいたのがシトロエンでした。一体シトロエン社にどんな車があるのかも知らず、自動車さんを探し、出かけて見ると、ありました。CXという車です。しかしこの時点でCXは生産中止になっています。次期の新車を待てばいいのですが、それは3年先だと言われました。やむをえません。CXの中古を探して乗って見ました。

 私は、初めてシトロエンに乗った時に、人生にこんな楽しい瞬間があるのかと思いました。外見はつるんとしていて、宇宙船のようです。ドイツ車が顔がいかつくて、立派な作りであるのに対して、シトロエンは猫のようにつるりとして、とらえどころがありません。胴が長く、しかも前輪駆動のため、ボンネットが長く、運転手の乗る位置は、車の真ん中に来ています。つまり5メーターに近い車の2.5メ-ターまでボンネットなのです。前が長い分、後ろがいきなりストンと終わっていて、まるでハイエナの後ろ足みたいで間抜けです。更にはリアウインドーが、逆に湾曲していて、間違ってガラスを取り付けたのではないかと思わせるような格好です。変と言えばどこまでも変なのですが、全体のイメージは宇宙的で、世界中のどこの車とも違います。

 車自体は車高が低く、まるで犬が伏せをしているように、フロアが地面擦れ擦れに位置しています。早速乗り込んで、キーを入れると、フーッ、と言う音がして、それに合わせて、車高が自然に高くなります。約10センチくらい全体が浮き上がるのです。犬が立ち上がって、「さて、そろそろ行こうか」。と身構えたようです。その間も、キュキュキュキュと小さな音がして、車が安定位置につきます。それからアクセルを踏んで動き出します。その乗り心地が、車と言うよりも、湖に大きな遊覧船を浮かばせて進むような安定感があり、実に静かに移動してゆきます。環7の幹線道路を走ると、橋と橋のつなぎ目などはどんな車に乗っても、ゴツンゴツンと突き上げが来るのですが、シトロエンは見事クリアです。まったく腰に道路の継ぎ目が感じられません。

 わずか10分の試乗で私はすっかりシトロエンのファンになってしまいました。そして、早速購入。以来30余年、去年の夏まではずっとシトロエンだったのです。

この年、高円寺に土地を買い、ビルを建て、会社を株式にし、子供が生まれ、車はフランス車と、何もかも思い通りに事が運び、幸せの絶頂でした。

 しかしこの先がいきなり奈落の底でした。バブルがはじけて、家のローンが払えず、アシスタントや弟子には給料が払えず、シトロエンは機嫌のいいときは極上の乗り心地ですが、ある日突然動かなくなったり、修理をするたびに20万円くらいの費用が掛かったり。シトロエンは、言ってみれば、超美人の女の子と付き合ったはいいけれど、その娘が浪費家で、わがままで、贅沢で、何から何まで金のかかる相手だったと言う話と似たような状態で、仕事の少ない中で私は困りまくってしまいました。

 しかし、そうではあってもこれほど楽しい人生を経験したことはなく、そのシトロエンとの人生の天国と地獄はまた明日お話しします。