手妻師 藤山新太郎のブログ

1988 年、1994 年に文化庁芸術祭賞、1998 年に文化庁芸術祭賞大賞を受賞。2010 年には松尾芸能賞 優秀賞を受賞。 江戸時代に花開いた日本伝統奇術「手妻(てづま)」の数少ない継承者 藤山新太郎のブログ。

FISMブラッセル

 私が初めてヨーロッパのコンベンションに行ったのは、1979年FISMブラッセルが最初でした。24歳でした。いきなり 二千人の大会に出かけたのですから、見るものすべて驚きでした。日本にいては、親父の持ってくるちゃちな余興の仕事か、松竹演芸場か、キャバレーの仕事ばかりでしたから、収入にはなっても、このまま続けていても大したマジシャンにはなれそうもありません。何とか、一度世界の様子を見ておきたいと考えていました。

 そうした中、トリックスの社長、赤沼敏雄さんが、トリックスの商品をヨーロッパに宣伝するため、FISMの大会にブースを出そうと考えました。私はその一員になりたいと積極的に売り込みを図りました。メンバーは、赤沼さんと専務の新城泰一さん。それにたまたま日本に留学していたルドーと言う若いベルギーのアマチュアマジシャン。トリックスにすれば、別段そこに私を連れて行く理由はありません。しかし私は、私がいかに有能な人間であるかを必死に売り込みました。

 実を言えば有能でも何でもありません。英語は全く話せませんし、ヨーロッパのことなど知りません。商品に関しては知ってはいますが、あまり売ることには興味がありません。マジックも世界に問うような独自の手順などはありません。本心は、ヨーロッパのショウを見て回って、仲間を作って、あわよくば仕事の一本も手に入れたいと、自分の都合ばかりで売り込んだのです。赤沼さんがどういう判断を立てたのかはわかりませんが、私はトリックスの一員として、ベルギーに随行することになりました。

 飛行機はパキスタンエアーラインです。20時間かけて、南回りで、パキスタン、イラン、エジプト、ギリシャを通って、イギリスに行きます。これが一番安い航空チケットです。ところがこれが食わせ物で、パキスタンのカラチについた途端、乗客全員おろします。乗客をカラチのホテルに止めて、24時間後のヨーロッパ行きに乗せます。この間、丸一日乗客はすることがありません。これはパキスタン政府の政策で、外国人を一泊止めれば、彼らは国内で観光をしたり、土産を買ったりして金を落とします。それを当て込んで、わざわざホテルに止めて、食事を出して一日遊ばせるのです。

 しかしトリックスは困りました。着いた翌日には仕事の打ち合わせがあります。国際電話を使って、四苦八苦しています。私はそんなことは知りません。早速、翌朝から街を散歩します。カラチは随分貧しい町でした。電気屋があっても新品はほとんどなく、煙草屋は、ござの上に煙草を一本一本並べて、小売りしていました。ミニバスをチャーターして、日本人20人が博物館出かけましたが、途中でガソリンが切れ、給油をしますが、5リッター程度の油しか買いません。いつもギリギリの油で走っているようです。

 翌日、カラチを立って、早朝、ロンドンにつきます。ロンドンでは、500年の歴史のあるおもちゃ屋ハムレーズにでかけ、ハムレーズの役員と会食をします。私は生まれて初めてイギリスの名だたる会社の経営者を見ましたが、みな立派な顔立ちをしています。   ハムレーズでは、マジックコーナーを充実させて、専門店のようにしたい意向で、その協力をトリックスに依頼してきました。話の中で私をその売り場の責任者にどうかなどと言ってきましたが、月の給料を聞くと話にならないくらい安いものでした。歴史あるハムレーズとはいえ、店員は黒人か、香港人ばかりでした。店員と言う職業は白人のする仕事ではないようです。私も、安い給料でハムレーズの店員になるくらいなら松竹演芸場に出ていたほうがずっといいと思いました。

 トリックスがハムレーズ相手にどれだけの商売をしたのかは知りませんが、翌日。列車でドーバーまで行き、そこから船で対岸のベルギーの港町オスタンドに行きました。港にはルドーのお兄さんが車をつけて待っていて、そのままイープルと言う町に入ります。イープルはルドーの故郷です。ベルギーは、三階建ての三角屋根の家がずっと続きます。子供のころ、ピノキオの絵本に出てきたような街並みです。今は美しい静かな町ですが、第一次大戦の時には、独仏の激戦地となり、市民が大虐殺されています。

 我々はイープルのホテルに泊まり、ルドーの親戚と食事をします。そこに。イープルマジシャンズクラブも加わり、にぎやかな晩餐会になりました。ここで私に彼女ができて、彼女はその後ブラッセルまでずっと一緒でした。私はどこへ行っても和服でした。とても目立ちます。しかし自己アピールにはいい経験をしました。

 翌日は、ブルージュに行きました、この町は今も日本人に人気がある観光地です。町中堀がめぐらされていて、中世の街並みがそのまま残っています。そこにもマジッククラブがあり、その例会に招かれました。驚いたことに、会食が夜9時から始まり、食事が終わったのは11時でした、それから例会です。深夜1時半まで続きました。時間の使い方が日本とまるで違います。このクラブの会長がブリングハムと言う若いアマチュアで、彼とはその先も付き合いがあります。今はFISM の副会長になっています。

 翌日はいよいよブラッセルです。ブラッセルは大きな綺麗な都市です。市の中心にあるコンベンションセンターでの開催です。劇場は一階にあり、ショップは地下にありました。驚いたことに店が百軒近く出ています。我々は9時のオープンを前に、8時40分くらいに会場に入って、掃除をし、商品を並べます。しかし、会場前に掃除をする店なんて、日本とドイツのマジックハンズくらいのものでした。マジックハンズは掃除の後に朝礼までしていました。あぁ、日本人とドイツ人は行動がよく似ていると思いました。

 他のショップは、イギリスとオランダのショップが、9時ちょうどに入ってきました。彼らはクロスを取り去ると、もうすぐに販売ができるようになっていました。ところが、フランスや、イタリアのショップは午前中は休みです。昼前にやってきて、店を開け始め、少しすると食事に出てしまいます。スペインのショップなどは3時ころにやってきます。そんなことで商売になるのかと心配になります。

 一方大会参加者は、朝、ホテルにいても面白くありませんから、早々に売り場にやってきます。みんな珍しいマジックを見るのを楽しみにしています。しかし、他の店がどこもオープンしていませんから、当然、ドイツと日本の店は早くから大混雑です。

 始めは赤沼社長も「うちの会社の道具が売れるかなぁ」、と心配していたのですが、初日の売り上げに気を良くして、徐々に強気になってきます。赤沼社長は、前年に、リチャードロスの大きな金の懐中時計のプロダクション道具を作って売り出しました。限定50組とか言っていました。それが5組売れ残っていて、「これ売ってもいいかなぁ」と私に聞きます。私に聞かれても困ります。「まずいでしょう。千葉の奇術大会で売るならばれないかもしれませんが、ヨーロッパでリチャードロスのとりネタを売ったらきっと苦情が来ますよ」。と反対しました。社長はしぶしぶ道具を引っ込めました。ところが、大会が終わるころになると時計がありません。社長に聞くと「あぁ、あれね、欲しいっていう人がいたから売っちゃった」。それはまずいだろうと思っていると、案の定、リチャードロスがやってきて、私に「ここらで、私の時計のトリックを売っていたショップがあったと聞いたけど、君知らないか」、と言われたので、ここは白を切る以外ないと「知りません、知りません」、と言って逃げましたが、やはりリチャードロスの取りネタを売ってはいけませんよね。この先はまた明日。